学問のすゝめ / 八編・わが心をもって他人の身を制すべからず・人の家にあらず畜類の小屋
右は姦夫淫婦の話なれども、またここに妾の議論あり。世に生まるる男女の数は同様なる理なり。西洋人の実験によれば、男子の生まるることは女子よりも多く、男子二十二人に女子二十人の割合なりと。されば一夫にて二、三の婦人を娶るはもとより天理に背くこと明白なり。これを禽獣と言うも妨げなし。父をともにし母をともにする者を兄弟と名づけ、父母兄弟ともに住居するところを家と名づく。しかるに今、兄弟、父をともにして母を異にし、一父独立して衆母は群を成せり。これを人類の家と言うべきか。家の字の義を成さず。たといその楼閣は巍々たるも、その宮室は美麗なるも、余が眼をもってこれを見れば人の家にあらず、畜類の小屋と言わざるを得ず。妻妾、家に群居して家内よく熟和するものは、古今いまだその例を聞かず。妾といえども人類の子なり。一時の欲のために人の子を禽獣のごとくに使役し、一家の風俗を乱りて子孫の教育を害し、禍を天下に流して毒を後世に遺すもの、豈これを罪人と言わざるべけんや。
書き下し
右は姦夫淫婦の話なれども、またここに妾の議論あり。世に生まるる男女の数は同様なる理なり。西洋人の実験によれば、男子の生まるることは女子よりも多く、男子二十二人に女子二十人の割合なりと。されば一夫にて二、三の婦人を娶るはもとより天理に背くこと明白なり。これを禽獣と言うも妨げなし。父をともにし母をともにする者を兄弟と名づけ、父母兄弟ともに住居するところを家と名づく。しかるに今、兄弟、父をともにして母を異にし、一父独立して衆母は群を成せり。これを人類の家と言うべきか。家の字の義を成さず。たといその楼閣は巍々たるも、その宮室は美麗なるも、余が眼をもってこれを見れば人の家にあらず、畜類の小屋と言わざるを得ず。妻妾、家に群居して家内よく熟和するものは、古今いまだその例を聞かず。妾といえども人類の子なり。一時の欲のために人の子を禽獣のごとくに使役し、一家の風俗を乱りて子孫の教育を害し、禍を天下に流して毒を後世に遺すもの、豈これを罪人と言わざるべけんや。
現代語訳
右は不義の夫婦の話ですが、またここに妾の議論があります。世に生まれる男女の数は同様である道理です。西洋人の実験によれば、男子が生まれることは女子より多く、男子二十二人に女子二十人の割合だといいます。ですから一人の夫が二人三人の婦人を娶るのはもとより天の理に背くことが明白です。これを禽獣と言っても差し支えありません。父を同じくし母を同じくする者を兄弟と名づけ、父母兄弟がともに住むところを家と名づけます。ところが今、兄弟が父を同じくして母を異にし、一人の父が独り立ち、多くの母が群れをなしています。これを人類の家と言えるでしょうか。家という字の意味をなしません。たとえその建物が高くそびえ、その部屋が美しくても、私の目で見ればそれは人の家ではなく、畜類の小屋と言わざるを得ません。妻と妾が家に群れ住んで、家の中がよく和合した例は、古今まだ聞いたことがありません。妾といえども人の子です。一時の欲のために人の子を禽獣のように使い、一家の風俗を乱して子孫の教育を害し、災いを天下に流して毒を後世に残す者を、どうして罪人と言わずにいられましょうか。
解説

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