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学問のすゝめ / 八編・わが心をもって他人の身を制すべからず・禁裏さまの心をもって公方さまの身を

今もし前の説に反し、「人たる者は理非にかかわらず他人の心に従いて事をなすものなり、わが了簡を出だすはよろしからず」という議論を立つる者あらん。この議論はたして理の当然なるか。理の当然ならばおよそ人と名のつきたる者の住居する世界には通用すべきはずなり。仮りにその一例を挙げて言わん。禁裏さまは公方さまよりも貴きものなるゆえ、禁裏さまの心をもって公方さまの身を勝手次第に動かし、行かんとすれば「止まれ」と言い、止まらんとすれば「行け」と言い、寝るも起きるも飲むも食うもわが思いのままに行なわるることなからん。公方さまはまた手下の大名を制し、自分の心をもって大名の身を自由自在に取り扱わん。大名はまた自分の心をもって家老の身を制し、家老は自分の心をもって用人の身を制し、用人は徒士を制し、徒士は足軽を制し、足軽は百姓を制するならん。

書き下し

今もし前の説に反し、「人たる者は理非にかかわらず他人の心に従いて事をなすものなり、わが了簡を出だすはよろしからず」という議論を立つる者あらん。この議論はたして理の当然なるか。理の当然ならばおよそ人と名のつきたる者の住居する世界には通用すべきはずなり。仮りにその一例を挙げて言わん。禁裏さまは公方さまよりも貴きものなるゆえ、禁裏さまの心をもって公方さまの身を勝手次第に動かし、行かんとすれば「止まれ」と言い、止まらんとすれば「行け」と言い、寝るも起きるも飲むも食うもわが思いのままに行なわるることなからん。公方さまはまた手下の大名を制し、自分の心をもって大名の身を自由自在に取り扱わん。大名はまた自分の心をもって家老の身を制し、家老は自分の心をもって用人の身を制し、用人は徒士を制し、徒士は足軽を制し、足軽は百姓を制するならん。

現代語訳

今もし前の説に反して、人たる者は理非にかかわらず他人の心に従って事をなすものであり、自分の考えを出すのはよろしくない、という議論を立てる者があるとします。この議論は果たして道理として当然でしょうか。当然であるなら、およそ人と名のつく者が住む世界には通用するはずです。仮にその一例を挙げて言いましょう。禁裏さまは公方さまより尊いものですから、禁裏さまの心で公方さまの身を勝手気ままに動かし、行こうとすれば止まれと言い、止まろうとすれば行けと言い、寝るも起きるも飲むも食うも思いのままに行われることになるでしょう。公方さまはまた配下の大名を制し、自分の心で大名の身を自由自在に取り扱うでしょう。大名はまた自分の心で家老の身を制し、家老は自分の心で用人の身を制し、用人は徒士を制し、徒士は足軽を制し、足軽は百姓を制するでしょう。

解説

反対説が立てられ、それを筋の通り切るところまで押していきます。自分の考えを出さず他人の心に従うのが正しいなら、天皇が将軍を、将軍が大名を、大名が家老をと、身分の階段を下まで辿れるはずです。用人から徒士、足軽、百姓まで律儀に数え上げるところが可笑しく、また周到でもある。相手の前提を否定せず、そのまま延ばして行き止まりを見せる論法で、次の段で反転が起きます。

この章句が説くこと

反対説階段身分延長論法

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