学問のすゝめ / 六編・国法の貴きを論ず・表向きの御大法と表向きの内証
国法の貴きを知らざる者は、ただ政府の役人を恐れ、役人の前をほどよくして、表向きに犯罪の名あらざれば内実の罪を犯すもこれを恥とせず。ただにこれを恥じざるのみならず、巧みに法を破りて罪を遁るる者あればかえってこれをその人の働きとしてよき評判を得ることあり。今、世間日常の話に、此も上の御大法なり、彼も政府の表向きなれども、この事を行なうにかく私に取り計らえば、表向きの御大法には差しつかえもあらず、表向きの内証などとて笑いながら談話して咎むるものもなく、はなはだしきは小役人と相談のうえ、この内証事を取り計らい、双方ともに便利を得て罪なき者のごとし。実はかの御大法なるもの、あまり煩わしきに過ぎて事実に施すべからざるよりして、この内証事も行なわるることなるべしといえども、一国の政治をもってこれを論ずれば、もっとも恐るべき悪弊なり。かく国法を軽蔑するの風に慣れ、人民一般に不誠実の気を生じ、守りて便利なるべき法をも守らずして、ついには罪を蒙ることあり。
書き下し
国法の貴きを知らざる者は、ただ政府の役人を恐れ、役人の前をほどよくして、表向きに犯罪の名あらざれば内実の罪を犯すもこれを恥とせず。ただにこれを恥じざるのみならず、巧みに法を破りて罪を遁るる者あればかえってこれをその人の働きとしてよき評判を得ることあり。今、世間日常の話に、此も上の御大法なり、彼も政府の表向きなれども、この事を行なうにかく私に取り計らえば、表向きの御大法には差しつかえもあらず、表向きの内証などとて笑いながら談話して咎むるものもなく、はなはだしきは小役人と相談のうえ、この内証事を取り計らい、双方ともに便利を得て罪なき者のごとし。実はかの御大法なるもの、あまり煩わしきに過ぎて事実に施すべからざるよりして、この内証事も行なわるることなるべしといえども、一国の政治をもってこれを論ずれば、もっとも恐るべき悪弊なり。かく国法を軽蔑するの風に慣れ、人民一般に不誠実の気を生じ、守りて便利なるべき法をも守らずして、ついには罪を蒙ることあり。
現代語訳
国法の尊さを知らない者は、ただ政府の役人を恐れ、役人の前を体裁よく取り繕い、表向きに犯罪の名がなければ内実の罪を犯しても恥としません。恥じないばかりか、巧みに法を破って罪を逃れる者があれば、かえってこれをその人の手腕としてよい評判を得ることがあります。今、世間の日常の話に、これも上のご法度だ、あれも政府の表向きだが、この事を行うのにこう内々に取り計らえば表向きのご法度には差し支えない、などと表向きの内証と称して笑いながら話し、咎める者もありません。甚だしきは小役人と相談のうえでこの内証事を取り計らい、双方とも便利を得て罪のない者のようにしています。実はあのご法度なるものがあまりに煩わしすぎて実際には行えないところから、この内証事も行われるのでしょうが、一国の政治として論じれば、最も恐るべき悪弊です。こうして国法を軽蔑する風に慣れると、人民一般に不誠実の気が生じ、守っていれば便利なはずの法をも守らず、ついには罪を受けることがあります。
解説
この章句が説くこと
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『学問のすゝめ』六編・国法の貴きを論ず・法を立つるは勉めて簡なるを良とす譬えば今往来に小便するは政府の禁制なり。しかるに人民みなこの禁令の貴きを知らずしてただ邏卒を恐るるのみ。あるいは日暮れなど邏卒のあらざるを窺いて法を破らんとし、はからずも見咎めらるることあればその罪に伏すといえども、本人の心中には貴き国法を犯したるがゆえに罰せらるるとは思わずして、ただ恐ろしき邏卒に逢いしをその日の不幸と思うのみ。実に歎かわしきことならずや。ゆえに政府にて法を立つるは勉めて簡なるを良とす。すでにこれを定めて法となすうえは必ず厳にその趣意を達せざるべからず。人民は政府の定めたる法を見て不便なりと思うことあらば、遠慮なくこれを論じて訴うべし。すでにこれを認めてその法の下に居るときは、私にその法を是非することなく謹んでこれを守らざるべからず。
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『学問のすゝめ』六編・国法の貴きを論ず・謹んで法を守り国民たるの分を誤らざる今般の一条につきては、太田氏をはじめ社中集会してその内話に、「かの文部省にて定めたる私塾教師の規則もいわゆる御大法なれば、ただ文学・科学の文字を消して語学の二字に改むれば、願いも済み、生徒のためには大幸ならん」と再三商議したれども、結局のところ、このたびの教師を得ずして社中生徒の学業あるいは退歩することあるも、官を欺くは士君子の恥ずべきところなれば、謹んで法を守り国民たるの分を誤らざるの方、上策なるべしとて、ついにこの始末に及びしことなり。もとより一私塾の処置にてこのこと些末に似たれども、議論の趣意は世教にも関わるべきことと思い、ついでながらこれを巻末に記すのみ。
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『学問のすゝめ』七編・国民の職分を論ず・俗にいわゆる犬の糞でかたきなるもの第一 節を屈して政府に従うははなはだよろしからず。人たる者は天の正道に従うをもって職分とす。しかるにその節を屈して政府人造の悪法に従うは、人たるの職分を破るものと言うべし。かつひとたび節を屈して不正の法に従うときは、後世子孫に悪例を遺して天下一般の弊風を醸しなすべし。古来日本にても愚民の上に暴政府ありて、政府虚威を逞しゅうすれば人民はこれに震い恐れ、あるいは政府の処置を見て現に無理とは思いながら、事の理非を明らかに述べなば必ずその怒りに触れ、後日に至りて暗に役人らに窘しめらるることあらんを恐れて言うべきことをも言うものなし。その後日の恐れとは俗にいわゆる犬の糞でかたきなるものにて、人民はひたすらこの犬の糞を憚り、いかなる無理にても政府の命には従うべきものと心得て、世上一般の気風をなし、ついに今日の浅ましき有様に陥りたるなり。すなわちこれ人民の節を屈して禍を後世に残したる一例と言うべし。
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『学問のすゝめ』六編・国法の貴きを論ず・これを私裁と名づけその罪免すべからず右のごとく、国民は政府と約束して政令の権柄を政府に任せたる者なれば、かりそめにもこの約束を違えて法に背くべからず。人を殺す者を捕えて死刑に行なうも政府の権なり、盗賊を縛りて獄屋に繋ぐも政府の権なり、公事訴訟を捌くも政府の権なり、乱暴・喧嘩を取り押うるも政府の権なり。これらの事につき、国民は少しも手を出だすべからず。もし心得違いして私に罪人を殺し、あるいは盗賊を捕えてこれを笞うつ等のことあれば、すなわち国の法を犯し、みずから私に他人の罪を裁決する者にて、これを私裁と名づけ、その罪免すべからず。この一段に至りては文明諸国の法律はなはだ厳重なり。いわゆる威ありて猛からざるものか。わが日本にては政府の威権盛んなるに似たれども、人民ただ政府の貴きを恐れてその法の貴きを知らざる者あり。今ここに私裁のよろしからざる所以と国法の貴き所以とを記すこと左のごとし。
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『学問のすゝめ』六編・国法の貴きを論ず・切捨て御免という法あり古は日本にて百姓・町人の輩、士分の者に対して無礼を加うれば切捨て御免という法あり。こは政府より公に私裁を許したるものなり。けしからぬことならずや。すべて一国の法はただ一政府にて施行すべきものにて、その法の出ずるところいよいよ多ければその権力もまたしたがっていよいよ弱し。譬えば封建の世に三百の諸侯おのおの生殺の権ありし時は、政府の力もその割合にて弱かりしはずなり。
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『学問のすゝめ』初編・人の貴きにあらず国法の貴きなりされば今より後は日本国中の人民に、生まれながらその身につきたる位などと申すはまずなき姿にて、ただその人の才徳とその居処とによりて位もあるものなり。たとえば政府の官吏を粗略にせざるは当然のことなれども、こはその人の身の貴きにあらず、その人の才徳をもってその役儀を勤め、国民のために貴き国法を取り扱うがゆえにこれを貴ぶのみ。人の貴きにあらず、国法の貴きなり。旧幕府の時代、東海道にお茶壺の通行せしは、みな人の知るところなり。そのほか御用の鷹は人よりも貴く、御用の馬には往来の旅人も路を避くる等、すべて御用の二字を付くれば、石にても瓦にても恐ろしく貴きもののように見え、世の中の人も数千百年の古よりこれを嫌いながら、また自然にその仕来りに慣れ、上下互いに見苦しき風俗を成せしことなれども、畢竟これらはみな法の貴きにもあらず、品物の貴きにもあらず、ただいたずらに政府の威光を張り、人を畏して人の自由を妨げんとする卑怯なる仕方にて、実なき虚威というものなり。