学問のすゝめ / 六編・国法の貴きを論ず・政府は国民の名代にて
政府は国民の名代にて、国民の思うところに従い事をなすものなり。その職分は罪ある者を取り押えて罪なき者を保護するよりほかならず。すなわちこれ国民の思うところにして、この趣意を達すれば一国内の便利となるべし。元来罪ある者とは悪人なり、罪なき者とは善人なり。いま悪人来たりて善人を害せんとすることあらば、善人みずからこれを防ぎ、わが父母妻子を殺さんとする者あらば捕えてこれを殺し、わが家財を盗まんとする者あらば捕えてこれを笞うち、差しつかえなき理なれども、一人の力にて多勢の悪人を相手にとり、これを防がんとするも、とても叶うべきことにあらず。
書き下し
政府は国民の名代にて、国民の思うところに従い事をなすものなり。その職分は罪ある者を取り押えて罪なき者を保護するよりほかならず。すなわちこれ国民の思うところにして、この趣意を達すれば一国内の便利となるべし。元来罪ある者とは悪人なり、罪なき者とは善人なり。いま悪人来たりて善人を害せんとすることあらば、善人みずからこれを防ぎ、わが父母妻子を殺さんとする者あらば捕えてこれを殺し、わが家財を盗まんとする者あらば捕えてこれを笞うち、差しつかえなき理なれども、一人の力にて多勢の悪人を相手にとり、これを防がんとするも、とても叶うべきことにあらず。
現代語訳
政府は国民の代理人であって、国民の思うところに従って事を行うものです。その職分は、罪ある者を取り押さえて罪なき者を保護するほかにありません。それこそ国民の思うところであり、この趣旨が達せられれば一国内の便利となります。もともと罪ある者とは悪人であり、罪なき者とは善人です。今、悪人がやってきて善人を害しようとするなら、善人が自分でこれを防ぎ、自分の父母や妻子を殺そうとする者があれば捕えてこれを殺し、自分の家財を盗もうとする者があれば捕えてこれを笞打っても差し支えない道理です。しかし一人の力で大勢の悪人を相手にとり、これを防ごうとしても、とうてい叶うことではありません。
解説
六編が始まり、話題が国法に移ります。まず政府の定義が置かれます。国民の代理人であり、仕事は悪人を押さえて善人を守ることだけ。ここから自力救済の話に入るのが巧みです。自分を守るために自分で反撃するのは、道理としては認められる。しかし一人では大勢の悪人に勝てない、という現実的な理由で話が進みます。権利の話から始めて、能力の限界に着地させることで、次の段の約束論への橋を架けています。
この章句が説くこと
政府代理職分自力限界
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