学問のすゝめ / 四編・学者の職分を論ず・世間の気風に酔いてみずから知らず
試みにその実証を挙げて言わん。方今世の洋学者流はおおむねみな官途につき、私に事をなす者はわずかに指を屈するに足らず。けだしその官にあるはただ利これ貪るのためのみにあらず、生来の教育に先入してひたすら政府に眼を着し、政府にあらざればけっして事をなすべからざるものと思い、これに依頼して宿昔青雲の志を遂げんと欲するのみ。あるいは世に名望ある大家先生といえどもこの範囲を脱するを得ず。その所業あるいは賤しむべきに似たるも、その意は深く咎むるに足らず、けだし意の悪しきにあらず、ただ世間の気風に酔いてみずから知らざるなり。名望を得たる士君子にしてかくのごとし。天下の人豈その風に倣わざるを得んや。
書き下し
試みにその実証を挙げて言わん。方今世の洋学者流はおおむねみな官途につき、私に事をなす者はわずかに指を屈するに足らず。けだしその官にあるは、ただ利これ貪るのためのみにあらず、生来の教育に先入してひたすら政府に眼を着し、政府にあらざればけっして事をなすべからざるものと思い、これに依頼して宿昔青雲の志を遂げんと欲するのみ。あるいは世に名望ある大家先生といえども、この範囲を脱するを得ず。その所業あるいは賤しむべきに似たるも、その意は深く咎むるに足らず、けだし意の悪しきにあらず、ただ世間の気風に酔いてみずから知らざるなり。名望を得たる士君子にしてかくのごとし。天下の人、あにその風に倣わざるを得んや。
現代語訳
試みにその証拠を挙げて言いましょう。今の世の洋学者はおおむねみな官職につき、民間で事を行う者は指折り数えるほどしかいません。思うにその官にあるのは、ただ利を貪るためだけではなく、生まれてからの教育が先に入って、ひたすら政府に目を向け、政府でなければ決して事を行えないものと思い込み、これに頼ってかねての立身の志を遂げようとするだけです。世に名声のある大家や先生といっても、この範囲を脱することができません。その行いは賤しむべきものに見えるかもしれませんが、その心は深く咎めるに足りません。心が悪いのではなく、ただ世間の気風に酔って自分では気づいていないのです。名声を得た立派な人物でさえこうです。天下の人がその風に倣わずにいられましょうか。
解説

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『学問のすゝめ』四編・学者の職分を論ず・漢を体にして洋を衣にするしかるにまた、これに依頼すべからざるの事情あり。近来この流の人ようやく世間に増加し、あるいは横文を講じ、あるいは訳書を読み、もっぱら力を尽くすに似たりといえども、学者あるいは字を読みて義を解さざるか、あるいは義を解してこれを事実に施すの誠意なきか、その所業につきわが輩の疑いを存するもの少なからず。その疑いを存するとは、この学者士君子、みな官あるを知りて私あるを知らず、政府の上に立つの術を知りて、政府の下に居るの道を知らざるの一事なり。畢竟、漢学者流の悪習を免れざるものにて、あたかも漢を体にして洋を衣にするがごとし。
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『学問のすゝめ』四編・学者の職分を論ず・人民のよるべき標的を示す者右所論をもって考うれば、方今わが国の文明を進むるには、まずかの人心に浸潤したる気風を一掃せざるべからず。これを一掃するの法、政府の命をもってし難し、私の説諭をもってし難し、必ずしも人に先だって私に事をなし、もって人民のよるべき標的を示す者なかるべからず。今この標的となるべき人物を求むるに、農の中にあらず、商の中にあらず、また和漢の学者中にもあらず、その任に当たる者は、ただ一種の洋学者流あるのみ。
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『学問のすゝめ』四編・学者の職分を論ず・あたかも娼妓の客に媚びるがごとし青年の書生わずかに数巻の書を読めばすなわち官途に志し、有志の町人わずかに数百の元金あればすなわち官の名を仮りて商売を行なわんとし、学校も官許なり、説教も官許なり、牧牛も官許、養蚕も官許、およそ民間の事業、十に七、八は官の関せざるものなし。これをもって世の人心ますますその風に靡き、官を慕い官を頼み、官を恐れ官に諂い、毫も独立の丹心を発露する者なくして、その醜体見るに忍びざることなり。譬えば方今出版の新聞紙および諸方の上書建白の類も、その一例なり。出版の条令はなはだしく厳なるにあらざれども、新聞紙の面を見れば政府の忌諱に触るることは絶えて載せざるのみならず、官に一毫の美事あればみだりにこれを称誉してその実に過ぎ、あたかも娼妓の客に媚びるがごとし。
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『学問のすゝめ』四編・学者の職分を論ず・まさにこれをわが輩の任と言うべし前条所記の論説はたして是ならば、わが国の文明を進めてその独立を維持するは、ひとり政府の能くするところにあらず。また今の洋学者流も依頼するに足らず、必ずわが輩の任ずるところにして、まずわれより事の端を開き、愚民の先をなすのみならず、またかの洋学者流のために先駆してその向かうところを示さざるべからず。今わが輩の身分を考うるに、その学識もとより浅劣なりといえども、洋学に志すこと日すでに久しく、この国にありては中人以上の地位にある者なり。輓近世の改革も、もしわが輩の主として始めしことにあらざれば、暗にこれを助けなしたるものなり。あるいは助成の力なきも、その改革はわが輩の悦ぶところなれば、世の人もまたわが輩を目するに改革家流の名をもってすること必せり。すでに改革家の名ありて、またその身は中人以上の地位にあり、世人あるいはわが輩の所業をもって標的となす者あるべし。しからばすなわち今、人に先だって事をなすは、まさにこれをわが輩の任と言うべきなり。
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福沢諭吉小品集・学者安心論・第16段前章にいえる如く、当世の学者は一心一向にその思想を政府の政に凝らし、すでに過剰にして持てあましたる官員の中に割込み、なおも奇計妙策を政の実地に施さんとする者は、その数ほとんどはかるべからず。ただに今日、熱中奔走する者のみならず、内外に執行する書生にいたるまでも、法律を学ぶ者は司法省をねらい、経済学に志す者は大蔵省を目的とし、工学を勉強するは工部に入らんがためなり。万国公法を明らかにするは外務の官員たらんがためなり。かかる勢にては、この書生輩の行末を察するに、専門には不得手にしていわゆる事務なるものに長じ、私に適せずして官に適し、官に容れざれば野に煩悶し、結局は官私不和の媒となる者、その大半におるべし。政府のためを謀れば、はなはだ不便利なり、当人のためを謀れば、はなはだ不了簡なり。今の学者は政府の政談の外に、なお急にして重大なるものなしと思うか。 手近くここにその一、二を示さん。学者はかの公私に雇われたる外国人を見ずや。この外国人は莫大なる月給を取りて何事をなすか。余輩、未だ英国に日本人の雇われて年に数千の給料を取る者あるを聞かず。而して独り我が日本国にて外人を雇うは何ぞや。他なし、内国にその人物なきがゆえなり。学者に乏しきがゆえなり。学者の頭数はあれども、役に立つべき学者なきがゆえなり。今の学者が今より勉強して幾年を過ぎなば、この雇の外国人をやめてこれに交代すべきや。新聞紙の政談に志すも、この交代の日は容易に来ることなかるべし。 また、一昨年一二月八日に金星の日食ありて、諸外国の天文家は日本に来て測量したり。この時において、学者は何の観をなしたるか。金の魚虎は墺国の博覧会に舁つぎ出したれども、自国の金星の日食に、一人の天文学者なしとは不外聞ならずや。
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『学問のすゝめ』四編・学者の職分を論ず・一国の文明は政府の力のみにて進まず政府一新の時より在官の人物、力を尽くさざるにあらず、その才力また拙劣なるにあらずといえども、事を行なうに当たり如何ともすべからざるの原因ありて、意のごとくならざるもの多し。その原因とは、人民の無知文盲すなわちこれなり。政府すでにその原因のあるところを知り、しきりに学術を勧め、法律を議し、商法を立つるの道を示す等、あるいは人民に説諭し、あるいはみずから先例を示し、百方その術を尽くすといえども、今日に至るまでいまだ実効の挙がるを見ず、政府は依然たる専制の政府、人民は依然たる無気無力の愚民のみ。あるいはわずかに進歩せしことあるも、これがため労するところの力と費やすところの金とに比すれば、その奏功見るに足るもの少なきはなんぞや。けだし一国の文明は、ひとり政府の力をもって進むべきものにあらざるなり。