風姿花伝 / 第七 別紙口伝
一 物まねに似せぬ位あるべし物まねきはめてその物にまことになり入りぬれば似せんと思ふ心なしさるほどにおもしろき所ばかりを嗜めばなどか花なかるべきたとへば老人の物まねならば得たらん上手の心にはただ素人の老人が風流延年なんどに身をかざりて舞ひかなでんがごとしもとよりおのが身年寄ならば年寄に似せんと思ふ心あるべからずただそのときの物まねの人体ばかりをこそ嗜むべけれまた老人の花はありて年寄と見ゆる口伝といふは先づ善悪老したる風情をば心にかけまじきなり抑舞はたらきと申すはよろづに楽の拍手にあはせて足を踏み手をさしひき振風情を拍子にあててするものなり年よりぬればその拍子のあて所 太鼓 謡 つづみの頭よりはちちと遅く足を踏み手をもさしひきおよその振風情をも拍子に少し後るるやうにあるものなりこの故実なによりも年寄の形木なりこのあてがひばかりを心中にもちてその外をばただ世の常にいかにもいかにも花やかにすべし先づ仮令年寄の心には何事をも若くしたがるものなりさりながら力なく五体も重く耳も遅ければ心はゆけどもふるまひのかなはぬなりこの理を知ることまことの物まねなりわざをば年寄の望のごとく若き風情をすべしこれ年寄の若き事をうらやむ心風情を学ぶにてはなしや年寄はいかに若ふるまひをするともこの拍手におくるることは力なくかなはぬ理なり年寄の若ふるまひめづらしき理なり老木に花の咲かんがごとし
書き下し
一、物まねに似せぬ位あるべし。物まねきはめて、その物にまことになり入りぬれば、似せんと思ふ心なし。さるほどに、おもしろき所ばかりを嗜めば、などか花なかるべき。たとへば、老人の物まねならば、得たらん上手の心には、ただ素人の老人が風流延年なんどに身をかざりて舞ひかなでんがごとし。もとよりおのが身年寄ならば、年寄に似せんと思ふ心あるべからず。ただそのときの物まねの人体ばかりをこそ嗜むべけれ。また、老人の花はありて、年寄と見ゆる口伝といふは、先づ善悪、老したる風情をば心にかけまじきなり。抑、舞はたらきと申すは、よろづに楽の拍手にあはせて足を踏み、手をさしひき、振風情を拍子にあててするものなり。年よりぬれば、その拍子のあて所、太鼓、謡、つづみの頭よりはちちと遅く、足を踏み手をもさしひき、およその振風情をも拍子に少し後るるやうにあるものなり。この故実、なによりも年寄の形木なり。このあてがひばかりを心中にもちて、その外をば、ただ世の常にいかにもいかにも花やかにすべし。先づ仮令、年寄の心には、何事をも若くしたがるものなり。さりながら、力なく五体も重く耳も遅ければ、心はゆけども、ふるまひのかなはぬなり。この理を知ること、まことの物まねなり。わざをば、年寄の望のごとく若き風情をすべし。これ、年寄の若き事をうらやむ心風情を学ぶにてはなしや。年寄はいかに若ふるまひをするとも、この拍手におくるることは、力なくかなはぬ理なり。年寄の若ふるまひ、めづらしき理なり。老木に花の咲かんがごとし。
現代語訳
一、物まねには、似せようとしない境地がある。物まねを極めて、その対象そのものに本当になりきってしまえば、似せようという意識はなくなる。そうなれば、面白いところだけを心がけて演じればよく、どうして花が生まれないことがあろうか。たとえば老人の物まねなら、それを会得した上手の心では、ただ素人の老人が風流の延年の舞などに身を飾って舞い奏でるように演じるものだ。もともと自分自身が年寄なら、年寄に似せようという意識は要らない。ただその折の物まねの人物像だけを心がければよいのだ。また、老人を演じて花があり、しかも年寄らしく見える口伝というのは、まず何より、老いぼれた風情を殊更に意識してはならないということである。そもそも舞や所作というのは、すべて楽の拍子に合わせて足を踏み、手を出し引き、身振りや風情を拍子に当てて演じるものだ。年をとると、その拍子の当たり所が、太鼓・謡・鼓の打ち出しよりも少し遅れて、足を踏み手を出し引きし、おおよその身振り風情も拍子より少し後れるものである。この心得こそ、何よりも年寄を表す型なのだ。この拍子の外し方だけを心中に持って、それ以外は、ただ世間並みにできるだけ華やかに演じるべきである。まず老人の心では、何事も若くありたがるものだ。しかし、力がなく体も重く耳も遅いので、心は逸っても、動作が追いつかない。この道理を知ることが、本当の物まねである。動作は、老人が望むとおりに若々しい風情で演じるべきだ。これは、老人が若さを羨む心の風情を写しているのではないか。老人がいくら若い振る舞いをしても、この拍子に後れることは、力及ばず避けられない道理である。老人の若々しい振る舞いは、それ自体が珍しい趣なのだ。ちょうど老木に花が咲くようなものである。