風姿花伝 / 第七 別紙口伝
一 能によろづ用心をもつべきこと仮令怒れる風体にせんときは柔らかなる心を忘るべからずこれいかに怒るとも荒かるまじき手立なり怒れるに柔らかなる心をもつことめづらしき理なりまた幽玄の物まねに強き理を忘るべからずこれ一切 舞 はたらき 物まね あらゆることに住せぬ理なりまた身をつかふうちにも心根あるべし身を強く動かすときは足踏をぬすむべし足を強く踏むときは身をばしづかにもつべしこれは筆に見えがたし相対しての口伝なり
書き下し
一、能によろづ用心をもつべきこと。仮令、怒れる風体にせんときは、柔らかなる心を忘るべからず。これ、いかに怒るとも荒かるまじき手立なり。怒れるに柔らかなる心をもつこと、めづらしき理なり。また、幽玄の物まねに強き理を忘るべからず。これ、一切、舞、はたらき、物まね、あらゆることに住せぬ理なり。また、身をつかふうちにも心根あるべし。身を強く動かすときは、足踏をぬすむべし。足を強く踏むときは、身をばしづかにもつべし。これは筆に見えがたし。相対しての口伝なり。
現代語訳
一、能ではあらゆる場面で用心を持つべきこと。たとえば怒った様子を演じるときは、柔らかな心を忘れてはならない。これは、どんなに怒りを表しても荒々しくなりすぎないための工夫である。怒りの演技に柔らかな心を併せ持つこと、それが珍しさの道理なのだ。また、幽玄(優美)な役を物まねするときには、その内に強さの理を忘れてはならない。これは、あらゆる舞・所作・物まね、すべてにおいて一つの様に留まらないための道理である。また、体を使う中にも心配りがあるべきだ。体を強く動かすときは、足の踏み込みを控えめにするとよい。足を強く踏むときは、体を静かに保つべきだ。これは文章では伝えにくい。直接向き合って伝える口伝である。
解説
この一節は、能の演技における「均衡(バランス)」の心得を説きます。怒りを演じるときは内に柔らかさを、優美な役を演じるときは内に強さを併せ持つ——正反対の要素を同時に抱えることが「珍しさ」を生むというのです。また体の動きでも、手を強く動かすときは足を控え、足を強く踏むときは体を静かに保つ。一方に偏らず釣り合いを取る配慮が求められます。第七別紙口伝の中で、これまで説いてきた「住せぬ(一つに留まらない)」花の理を、演技の具体的な身体技法に落とし込んだ実践的な段です。世阿弥自身「文章では伝えにくく、対面での口伝だ」と記しています。現代の仕事や表現でも、強さ一辺倒、優しさ一辺倒では単調になります。厳しさの中に温かさを、大胆さの中に慎重さを併せ持つ——相反する質を同居させる配慮が、深みと魅力を生むという普遍的な教えです。
この章句が説くこと
用心柔らかなる心幽玄強き理住せぬ理均衡
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風姿花伝・第七 別紙口伝一、物まねに似せぬ位あるべし。物まねきはめて、その物にまことになり入りぬれば、似せんと思ふ心なし。さるほどに、おもしろき所ばかりを嗜めば、などか花なかるべき。たとへば、老人の物まねならば、得たらん上手の心には、ただ素人の老人が風流延年なんどに身をかざりて舞ひかなでんがごとし。もとよりおのが身年寄ならば、年寄に似せんと思ふ心あるべからず。ただそのときの物まねの人体ばかりをこそ嗜むべけれ。また、老人の花はありて、年寄と見ゆる口伝といふは、先づ善悪、老したる風情をば心にかけまじきなり。抑、舞はたらきと申すは、よろづに楽の拍手にあはせて足を踏み、手をさしひき、振風情を拍子にあててするものなり。年よりぬれば、その拍子のあて所、太鼓、謡、つづみの頭よりはちちと遅く、足を踏み手をもさしひき、およその振風情をも拍子に少し後るるやうにあるものなり。この故実、なによりも年寄の形木なり。このあてがひばかりを心中にもちて、その外をば、ただ世の常にいかにもいかにも花やかにすべし。先づ仮令、年寄の心には、何事をも若くしたがるものなり。さりながら、力なく五体も重く耳も遅ければ、心はゆけども、ふるまひのかなはぬなり。この理を知ること、まことの物まねなり。わざをば、年寄の望のごとく若き風情をすべし。これ、年寄の若き事をうらやむ心風情を学ぶにてはなしや。年寄はいかに若ふるまひをするとも、この拍手におくるることは、力なくかなはぬ理なり。年寄の若ふるまひ、めづらしき理なり。老木に花の咲かんがごとし。
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風姿花伝・第七 別紙口伝一、能に十体を得べきこと。十体を得たらん仕手は、同じ事をひとまはりひとまはりづつするとも、その一通りの間久しかるべければ、めづらしかるべし。十体を得たらん人は、そのうちの故実工夫にては、ももいろにもわたるべし。先づ五年三年のうちに一ぺんづつも、めづらしくし替ふるやうならんずるあてがひをもつべし。これは大きなる安立なり。または一年のうち、四季折節をも心にかくべし。また、日をかさねたる申楽、一日のうちは申すに及ばず、風体の品々を色どるべし。かやうに、大綱より始めてちちとある事までも、自然自然に心にかくれば、一期花は失せまじきなり。またいふ、十体を知らんよりは、年々去来の花を忘るべからず。年々去来の花とは、たとへば、十体とは物まねの品々なり。年々去来とは、幼かりし時のよそほひ、初心の時分のわざ、手盛のふるまひ、年よりての風体、この時分時分のおのれと身にありし風体を、皆当芸に一度にもつことなり。あるときは児若族能かと見え、あるときは年ざかりの仕手かとおぼえ、またはいかほども臈たけて劫入りたるやうに見えて、同じ主とも見えぬやうに能をすべし。これすなはち、幼少のときより老後までの芸を一度にもつ理なり。さるほどに、年々さりきたる花とはいへり。但し、この位にいたれる仕手、上代末代に見も聞きも及ばず。亡父の若ざかりの能こそ、臈たけたる風体殊に得たりけるなど聞き及びしか。四十有余の時分よりは見なれし事なればうたがひなし。自然居士の物まね、高座の上にてのふるまひを、時の人十六七の人体に見えしなんど沙汰ありしなり。これはまさしく人も申し身にも見たりし事なれば、この位に相応したりし達者かとおぼえしなり。かやうに、若き時分には行末の年々去来の風体を得、年よりては過ぎし方の風体を身に残す仕手、二人とも見も聞きも及ばざりしなり。されば、初心よりのこの方の芸能の品々を忘れずして、そのときどき用々にしたがひて取り出だすべし。若くては年よりの風体、年よりてはさかりの風体を残すこと、めづらしきにあらずや。然れば、芸能の位あがれば、過ぎし風体をしすてしすて忘るること、ひたすら花の種を失ふなるべし。その時々にありし花のままにて、種なければ、手折れる花の枝のごとし。種あらば、年々時々の比になどかあはざらん。ただ返々、初心を忘るべからず。されば、常の批判にも、若き仕手をば、はやくあがりたる、劫入りたるなどほめ、年よりたるをば、若やぎたるなど批判するなり。これめづらしき理ならずや。十体のうちを彩らば、百色にもなるべし。そのうへに、年々去来の品々を一身当芸にもちたらんは、いかほどの花ぞや。
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風姿花伝・第七 別紙口伝一、抑、因果とて、よきあしき時のあるも、公案を尽して見るに、ただめづらしき、めづらしからぬの二つなり。おなじ上手にておなじ能を、昨日今日見れども、おもしろやと見えつる事の、今またおもしろくもなき時のあるは、昨日おもしろかりつる心ならひに、今日はめづらしからぬによりて、わるしと見るなり。その後またよき時のあるは、先にわるかりつるものをと思ふ心、まためづらしきに還りて、おもしろくなるなり。されば、この道をきはめをはりて見れば、花とて別にはなきものなり。奥義をきはめて、よろづにめづらしき理をわれと知るならでは、花はあるべからず。経にいはく、善悪不二、邪正一如とあり。本来より、よきあしきとは何をもて定むべきや。ただ時によりて用足る物をばよき物とし、用足らぬをあしき物とす。この風体の品々も、当世の衆人諸所にわたりて、その時のあまねき好みによりて取出す風体、これ用足る為の花なるべし。ここにこの風体をもてあそめば、かしこにまた余の風体を賞翫す。これ、人々心々の花なり。いづれをまこととせんや。ただ時に用ゆるをもて花と知るべし。