風姿花伝 / 第六 花修
一 能に強き幽玄弱き荒きを知ること大方は見えたる事なればたやすきやうなれども真実これを知らぬによりて弱く荒き仕手多し先づ一切の物まねに偽るところにて荒くも弱くもなると知るべしこの境よきほどの工夫にては紛るべしよくよく心底を分けて案じ修むべきことなり先づ弱かるべき事を強くするは偽なればこれ荒きなり強かるべき事に強きはこれ強きなり荒きにはあらず若し強かるべき事を幽玄にせんとて物まね似たらずは幽玄にはなくてこれ弱きなりさるほどにただ物まねにまかせてその物になり入りて偽なくは荒くも弱くもあるまじきなりまた強かるべき理過ぎて強きは殊更荒きなり幽玄の風体よりなほやさしくせんとせばこれ殊更弱きなりこの分目をよくよく見るに幽玄と強きと別にあるものと心得る故に迷ふなりこの二つはその物の体にありたとへば人においては女御 更衣 または遊女 好色 美男 草木にも花の類かやうの数々はそのかたち幽玄の物なりまたあるいは物のふ 荒夷あるいは鬼 神 草木にも松 杉かやうの数々の類は強き物と申すべきかかやうの万物の品々をよく仕似せたらんは幽玄の物まねは幽玄になり強きはおのづから強かるべしこの分目をあてがはずしてただ幽玄にせんとばかり心得て物まね粗雑なればそれに似ず似ぬをば知らで幽玄にするぞと思ふ心これ弱きなりされば遊女美男などの物まねをよく似せたらばおのづから幽玄なるべしただ似せんとばかり思ふべしまた強き事をもよく似せたらんはおのづから強かるべし但し心得べき事あり力なくこの道は見所を本にするわざなればその当世当世の風儀にて幽玄をもてあそぶ見物衆の前にては強き方をばすこし物まねに外るるとも幽玄の方へはやらせ給ふべしこの工夫をもて作者また心得べき事ありいかにも申楽の本木には幽玄ならん人体まして心言葉をもやさしからんを嗜みて書くべしそれに偽なくはおのづから幽玄の仕手と見ゆべし幽玄の理を知りきはめぬればおのれと強き所をも知るべしされば一切の似事をよく似すればよそ目に危き所なし危からぬは強きなり然ればちちとある言葉のひびきにもなびき臥すかへるよるなどいふ言葉は和らかなればおのづから余勢になるやうなりおつるくづるるやぶるるまろぶなど申すは強きひびきなれば振も強かるべしさるほどに強き 幽玄と申すは別にあるものにあらずただ物まねのすぐなる所弱き荒きは物まねに外るる所と知るべしこのあてがひをもて作者も発端の句 一声 和歌などに人体の物まねによりていかにも幽玄なる余勢たよりを求むる所に荒き言葉を書き入れ思ひの外にいりほがなる梵語 漢音などを載せたらんは作者の僻事なりさだめて言葉のままに風情をせば人体に似合はぬ所あるべし但し堪能の人はこの違目を心得て興がる故実にてなだらかなるやうにしなすべしそれは仕手の功名なり作者の僻事はのがるべからずまた作者は心得て書けども若し仕手の心なからんにいたりては沙汰の外なるべしこれはかくのごとしまた能によりてさしてこまかに言葉 儀理にかからで大様にすべき能あるべしさやうの能をばすぐに舞 謡 振をもするするとなだらかにすべしかやうなる能をまたこまかにするは下手のわざなりこれまた能の下る所と知るべし然ればよき言葉余勢を求むるも儀理 詰所のなくてはかなはぬ能にいたりてのことなりすぐなる能にはたとひ幽玄の人体にて剛き言葉を謡ふとも音曲のかかりだにたしやかならばこれよかるべしこれすなはち能の本様と心得べき事なりただ返々かやうの条々をきはめ尽してさて大様にするならでは能の庭訓あるべからず
書き下し
一、能に強き幽玄弱き荒きを知ること、大方は見えたる事なればたやすきやうなれども、真実これを知らぬによりて、弱く荒き仕手多し。先づ一切の物まねに、偽るところにて荒くも弱くもなると知るべし。この境、よきほどの工夫にては紛るべし。よくよく心底を分けて案じ修むべきことなり。先づ弱かるべき事を強くするは偽なれば、これ荒きなり。強かるべき事に強きは、これ強きなり、荒きにはあらず。若し強かるべき事を幽玄にせんとて、物まね似たらずは、幽玄にはなくてこれ弱きなり。さるほどにただ物まねにまかせて、その物になり入りて偽なくは、荒くも弱くもあるまじきなり。また強かるべき理過ぎて強きは、殊更荒きなり。幽玄の風体よりなほやさしくせんとせば、これ殊更弱きなり。この分目をよくよく見るに、幽玄と強きと別にあるものと心得る故に迷ふなり。この二つはその物の体にあり。たとへば人においては、女御更衣、または遊女好色美男、草木にも花の類、かやうの数々はそのかたち幽玄の物なり。またあるいは物のふ荒夷、あるいは鬼神、草木にも松杉、かやうの数々の類は強き物と申すべきか。かやうの万物の品々をよく仕似せたらんは、幽玄の物まねは幽玄になり、強きはおのづから強かるべし。この分目をあてがはずして、ただ幽玄にせんとばかり心得て、物まね粗雑なれば、それに似ず。似ぬをば知らで幽玄にするぞと思ふ心、これ弱きなり。されば遊女美男などの物まねをよく似せたらば、おのづから幽玄なるべし。ただ似せんとばかり思ふべし。また強き事をもよく似せたらんは、おのづから強かるべし。但し心得べき事あり。力なくこの道は見所を本にするわざなれば、その当世当世の風儀にて幽玄をもてあそぶ見物衆の前にては、強き方をばすこし物まねに外るるとも、幽玄の方へはやらせ給ふべし。この工夫をもて作者また心得べき事あり。いかにも申楽の本木には、幽玄ならん人体、まして心言葉をもやさしからんを嗜みて書くべし。それに偽なくは、おのづから幽玄の仕手と見ゆべし。幽玄の理を知りきはめぬれば、おのれと強き所をも知るべし。されば一切の似事をよく似すれば、よそ目に危き所なし。危からぬは強きなり。然ればちちとある言葉のひびきにも、なびき臥すかへるよるなどいふ言葉は和らかなれば、おのづから余勢になるやうなり。おつるくづるるやぶるるまろぶなど申すは、強きひびきなれば、振も強かるべし。さるほどに強き幽玄と申すは、別にあるものにあらず。ただ物まねのすぐなる所、弱き荒きは物まねに外るる所と知るべし。このあてがひをもて作者も、発端の句、一声、和歌などに、人体の物まねによりていかにも幽玄なる余勢たよりを求むる所に、荒き言葉を書き入れ、思ひの外にいりほがなる梵語漢音などを載せたらんは、作者の僻事なり。さだめて言葉のままに風情をせば、人体に似合はぬ所あるべし。但し堪能の人はこの違目を心得て、興がる故実にてなだらかなるやうにしなすべし。それは仕手の功名なり。作者の僻事はのがるべからず。また作者は心得て書けども、若し仕手の心なからんにいたりては、沙汰の外なるべし。これはかくのごとし。また能によりて、さしてこまかに言葉儀理にかからで、大様にすべき能あるべし。さやうの能をば、すぐに舞謡振をもするするとなだらかにすべし。かやうなる能をまたこまかにするは、下手のわざなり。これまた能の下る所と知るべし。然ればよき言葉余勢を求むるも、儀理詰所のなくてはかなはぬ能にいたりてのことなり。すぐなる能には、たとひ幽玄の人体にて剛き言葉を謡ふとも、音曲のかかりだにたしやかならば、これよかるべし。これすなはち能の本様と心得べき事なり。ただ返々かやうの条々をきはめ尽して、さて大様にするならでは、能の庭訓あるべからず。
現代語訳
一、能における強き・幽玄・弱き・荒きを見分けること。おおよそ目に見えることなので簡単なようだが、本当にはこれを知らないために、弱い・荒い演者が多い。まずすべての物まねにおいて、対象を偽る(本物になりきらない)ところで荒くも弱くもなると知るべきだ。この境目は、なまじの工夫では紛れて分からなくなる。よくよく心の底まで分け入って考え修めるべきことである。まず弱くあるべきものを強くするのは偽りだから、これが荒いということだ。強くあるべきものが強いのは、これは強いのであって、荒いのではない。もし強くあるべきものを幽玄にしようとして、物まねが似ていなければ、それは幽玄ではなくて弱いのである。だからただ物まねに任せて、その対象になりきって偽りがなければ、荒くも弱くもならないはずだ。また、強くあるべき道理を超えて強いのは、とりわけ荒いということである。幽玄の風体をさらにやさしくしようとすれば、これはとりわけ弱いのだ。この分かれ目をよくよく見ると、幽玄と強きとを別々に存在するものと思い込むから迷うのである。この二つは、その対象そのものの本質にある。たとえば人でいえば、女御・更衣、または遊女・好色・美男、草木でも花の類、こうしたものはその姿がもともと幽玄のものだ。また一方、武士・荒々しい者、あるいは鬼・神、草木でも松・杉、こうしたものは強いものと言うべきだろう。こうした万物のさまざまをよく似せて演じれば、幽玄の物まねは幽玄になり、強いものは自然に強くなる。この分かれ目をわきまえずに、ただ幽玄にしようとばかり思って、物まねが粗雑になれば、対象に似ない。似ていないのを知らずに幽玄にしているつもりだと思う心、これが弱いということだ。だから遊女や美男などの物まねをよく似せれば、自然に幽玄になる。ただ似せようとだけ思えばよい。また強いものもよく似せれば、自然に強くなる。ただし心得ておくべきことがある。やむを得ずこの道は観客の目を基準にする芸だから、その時代時代の風潮で幽玄を好む観客の前では、強い方は少し物まねから外れても、幽玄の方へ寄せるようになさるべきだ。この工夫について作者もまた心得るべきことがある。とにかく能の脚本には、幽玄であるような人物、まして心も言葉もやさしいものを工夫して書くべきだ。それに偽りがなければ、自然に幽玄のシテと見えるだろう。幽玄の道理を知り極めれば、自然と強い所も分かるようになる。だからすべての似せ事をよく似せれば、傍目に危なっかしい所がない。危なくないのが強いということだ。したがって、ちょっとした言葉の響きでも、「なびき」「臥す」「かへる」「よる」などという言葉は柔らかなので、自然と余情(余勢)になるようだ。「おつる」「くづるる」「やぶるる」「まろぶ」などというのは強い響きだから、所作も強くなる。だから強き・幽玄というのは、別々に存在するものではない。ただ物まねが素直に決まっている所(が幽玄・強き)で、弱き・荒きは物まねから外れている所だと知るべきだ。この見極めをもって作者も、冒頭の句や一声・和歌などに、人物の物まねに応じてまことに幽玄な余情の手がかりを求める所に、荒い言葉を書き入れ、思いがけず不釣り合いな梵語・漢音などを載せてしまうのは、作者の誤りである。きっと言葉のとおりに演じれば、人物に似合わない所が出てくるだろう。ただし堪能な演者はこの食い違いを心得て、面白がられる工夫でなめらかに処理するだろう。それはシテの手柄だ。作者の誤りは免れられない。また作者は心得て書いても、もしシテに心がなければ、論外である。これはこのとおりだ。また能によっては、特に細かく言葉や理屈にこだわらず、大まかにすべき能もある。そういう能は、そのまま舞・謡・所作をすらすらとなめらかにすべきだ。こうした能をかえって細かくするのは、下手のすることである。これもまた能の質が下がる所だと知るべきだ。したがってよい言葉や余情を求めるのも、理屈や見せ場がなくては成り立たない能に至ってのことである。素直な能には、たとえ幽玄の人物で強い言葉を謡っても、謡の調子さえ確かであれば、それでよいのだ。これこそが能の本来のあり方だと心得るべきである。ただくれぐれも、こうした一つ一つを極め尽くして、その上で大まかにするのでなければ、能の教え(庭訓)はありえないのだ。