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風姿花伝 / 第五 奥義

凡そこの道和州江州において風体変れり江州には幽玄の境をとりたてて物まねを次にしてかかりを本とす和州には先づ物まねをとりたてて物数を尽してしかも幽玄の風体ならんとなりしかれども真実の上手はいづれの風体なりとも漏れたる所あるまじきなり一向の風体ばかりをせん者はまこと得ぬ人のわざなるべしされば和州の風体物まね儀理を本としてあるひは長のあるよそほひ或は怒れるふるまひかくのごとくの物数を得たるところと人も心得嗜みもこれ専なれども亡父の名を得しさかり静が舞の能嵯峨の大念仏の女物狂の物まね殊に殊に得たりし風体なれば天下の褒美名望を得しこと世もてかくれなしこれ幽玄無上の風体なりまた田楽の風体殊に各別の事にて見所も申楽の風体には批判にも及ばぬと皆々思ひなれたれども近代にこの道の聖とも聞えし本座の一忠殊に殊に物数を尽しける中にも鬼神の物まね怒れるよそほひ漏れたる風体なかりけるとこそ承りし然れば亡父は常々一忠が事を我風体の師なりとまさしく申ししなりさればただ人ごとに或は諍識或は得ぬ故に一向の風体ばかりを得て十体にわたるところを知らでよその風体を嫌ふなりこれは嫌ふにはあらずただかなはぬ諍識なりさればかなはぬ故に一体を身に得たるほどの名望を一旦は得たれども久しき花なければ天下にゆるされず堪能にて天下のゆるされを得んほどの者はいづれの風体をするともおもしろかるべし風体形木は面々各々なれどもおもしろき所はいづれにもわたるべしこのおもしろしと見るは花なるべしこれ和州江州または田楽の能にも漏れぬところなりされば漏れぬところをもちたる仕手ならでは天下のゆるされを得んことあるべからずまたいふ悉く物数をきはめずとも仮令十分に七八分きはめたらん上手のその中に殊に得たる風体を我門体の形木にしきはめたらむがしかも工夫あらばこれまた天下の名望を得つべしさりながらげには十分に足らぬ所あらば都鄙上下において見所の褒貶の沙汰あるべし

書き下し

凡そこの道、和州・江州において風体変れり。江州には、幽玄の境をとりたてて、物まねを次にして、かかりを本とす。和州には、先づ物まねをとりたてて、物数を尽して、しかも幽玄の風体ならんとなり。しかれども、真実の上手は、いづれの風体なりとも、漏れたる所あるまじきなり。一向の風体ばかりをせん者は、まこと得ぬ人のわざなるべし。されば和州の風体、物まね儀理を本として、あるひは長のあるよそほひ、或は怒れるふるまひ、かくのごとくの物数を得たるところと、人も心得、嗜みもこれ専なれども、亡父の名を得しさかり、静が舞の能、嵯峨の大念仏の女物狂の物まね、殊に殊に得たりし風体なれば、天下の褒美名望を得しこと、世もてかくれなし。これ幽玄無上の風体なり。また田楽の風体、殊に各別の事にて、見所も申楽の風体には批判にも及ばぬと、皆々思ひなれたれども、近代にこの道の聖とも聞えし本座の一忠、殊に殊に物数を尽しける中にも、鬼神の物まね、怒れるよそほひ、漏れたる風体なかりけるとこそ承りし。然れば亡父は常々、一忠が事を我風体の師なりと、まさしく申ししなり。されば、ただ人ごとに、或は諍識、或は得ぬ故に、一向の風体ばかりを得て、十体にわたるところを知らで、よその風体を嫌ふなり。これは嫌ふにはあらず、ただかなはぬ諍識なり。されば、かなはぬ故に、一体を身に得たるほどの名望を、一旦は得たれども、久しき花なければ、天下にゆるされず。堪能にて天下のゆるされを得んほどの者は、いづれの風体をするとも、おもしろかるべし。風体形木は面々各々なれども、おもしろき所はいづれにもわたるべし。このおもしろしと見るは花なるべし。これ、和州・江州、または田楽の能にも漏れぬところなり。されば、漏れぬところをもちたる仕手ならでは、天下のゆるされを得んことあるべからず。またいふ、悉く物数をきはめずとも、仮令、十分に七八分きはめたらん上手の、その中に殊に得たる風体を、我門体の形木にしきはめたらむが、しかも工夫あらば、これまた天下の名望を得つべし。さりながら、げには十分に足らぬ所あらば、都鄙上下において、見所の褒貶の沙汰あるべし。

現代語訳

そもそもこの能の道は、和州(大和猿楽)と江州(近江猿楽)とで芸風が異なっている。江州では幽玄の境地を第一に取り上げ、物まねを二の次にして、優美なおもむき(かかり)を本位とする。和州ではまず物まねを第一に取り上げ、演目の種類を尽くしたうえで、そのうえに幽玄の風体をも目指そうとする。しかし本当の名人であれば、どの風体であっても取りこぼしがあってはならない。一つの風体だけしかやらない者は、真の芸を体得していない者の仕業というべきである。だから和州の風体は物まねの理にかなうことを本として、あるいは気位の高い装い、あるいは怒りの振る舞いといった多くの演目を身につけていると人も心得、その稽古も専らそこにあるが、亡父(観阿弥)が名声を得た盛りには、静御前の舞の能や、嵯峨の大念仏の女物狂の物まねを、とりわけ見事に演じたので、天下の称賛と名声を得たことは世に隠れもない。これこそ幽玄このうえない風体である。また田楽の風体はとりわけ別格のことで、その見どころは申楽の風体では批判(比較評価)することもできないと皆が思い慣れていたが、近ごろこの道の聖人とも呼ばれた本座の一忠は、とりわけ多くの演目を尽くした中にも、鬼神の物まねや怒りの装いなど、取りこぼした風体がなかったと承っている。だから亡父は常々、一忠のことを自分の芸風の師であると、はっきり申していた。さて、多くの者は、あるいは強情な思い込みから、あるいは体得できないために、一つの風体だけを身につけて、あらゆる風体(十体)に及ぶところを知らずに、他の風体を嫌う。これは本当に嫌っているのではなく、ただできないための強がりの理屈にすぎない。だからできないために、一つの風体を身につけたほどの名声を一時は得ても、長続きする花がないので、天下に認められない。芸に堪能で天下の認可を得るほどの者は、どの風体を演じてもおもしろいはずである。風体の型(形木)は人それぞれ異なっても、おもしろいと感じられる点はどの風体にも通じている。このおもしろいと見えるものこそが花である。これは和州・江州、あるいは田楽の能にも漏れなく通じるところである。だから、この漏れなく通じる花を持った演者でなければ、天下の認可を得ることはできない。また言う、すべての演目を極め尽くさなくても、たとえば十分のうち七、八分ほど極めた上手が、その中でとりわけ得意な風体を自分の一門の型として磨き上げ、そのうえに工夫があれば、これもまた天下の名声を得られるだろう。しかしながら、実際に十分に及ばないところがあれば、都でも田舎でも身分の上下を問わず、観客からほめ・けなしの評判が立つであろう。

解説

この一節は、大和猿楽と近江猿楽という二つの流儀の芸風を比較したものです。近江は幽玄と優美さを本位とし、大和は物まねと演目の豊富さを本位とすると整理したうえで、真の名人はどちらか一方に偏らず、あらゆる風体を取りこぼさないと説きます。世阿弥は父・観阿弥や田楽の名手・一忠を例に挙げ、一つの型しかできない者が他を嫌うのは「できないことの強がり」にすぎないと鋭く指摘します。『風姿花伝』奥義篇の核心は、流儀を超えて観客が「おもしろい」と感じる普遍的な魅力こそが「花」だという主張にあります。特定のやり方だけに固執せず幅広い引き出しを持つこと、そのうえで得意分野を磨き工夫を加えることの重要性は、現代の仕事や表現活動における専門性と汎用性のバランスにも通じる示唆に富んでいます。

この章句が説くこと

幽玄物まね十体和州江州観阿弥

この一句を、あなたの毎日に。

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