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風姿花伝 / 第六 花修

一 能のよきあしきにつけて仕手の位によりて相応の所を知るべきなり文字 風体を求めずして大様なる能を本説殊に正しくて大きに位のあがれる能あるべしかやうなる能は見所さほどこまかになきことありこれにはよきほどの上手も似合はぬことありたとひこれに相応するほどの無上の上手なりともまた目利 大所にてなくはよく出来ることあるべからずこれ能の位仕手の位目利 在所 時分悉く相応せずは出来ることは左右なくあるまじきなりまたちひさき能のさしたる本説にてはなけれども幽玄なるがほそぼそとしたる能ありこれは初心の仕手にも似合ふものなり在所もしぜん片辺の神事 夜などの庭に相応すべしよきほどの見手も能の仕手もこれに迷ひてしぜん田舎 小所の庭にておもしろければその心ならひにて押出したる大所 貴人の御前などにてあるいは贔屓興行して思ひの外に能わるければ仕手にも名を折らせわれも面目なきことあるものなり然ればかやうなる品々所々を限らで甲 乙 なからんほどの仕手ならでは無上の花をきはめたる上手とは申すべからずさるほどにいかなる座敷にも相応するほどの上手にいたりては是非なしまた仕手によりて上手ほどは能を知らぬ仕手もあり能よりは能を知るもあり貴所 大所などにて上手なれども能を仕ちがへちちのあるは能を知らぬ故なりまたそれほどに達者にもなく物少ななる仕手の申さば初心なるが大庭にても花失せず諸人の褒美弥ましにしてさのみにむらのなからんは仕手よりは能を知りたる故なるべしさるほどにこの両様の仕手をとりどりに申すことあり然れども貴所 大庭などにてあまねく能のよからんは名望長久なるべしさあらんにとりては上手の達者ほどは我が能を知らざらんよりはすこし足らぬ仕手なりとも能を知りたらんは一座建立の棟梁には優るべきか能を知りたる仕手はわが手柄の足らぬ所をも知る故に大事の能にかなはぬことをば斟酌して得たる風体ばかりを先だてて仕立よければ見所の褒美かならずあるべしさてかなはぬ所をば小所 片辺の能に仕ならふべしかやうに稽古すればかなはぬ所も劫入ればしぜんしぜんにかなふ時分あるベしさるほどに遂には能に嵩も出来垢も落ちていよいよ名望も一座も繁昌するときはさだめて年ゆくまで花は残るべしこれ初心より能を知る故なり能を知る心にて公案を尽して見ば花の種を知るべし然れどもこの両様はあまねく人の心々にて勝負をば定め給ふべし花修已上この条々心ざしの芸人より外は一見をもゆるすべからず世阿(華押)

書き下し

一、能のよきあしきにつけて、仕手の位によりて相応の所を知るべきなり。文字風体を求めずして、大様なる能を本説殊に正しくて、大きに位のあがれる能あるべし。かやうなる能は、見所さほどこまかになきことあり。これにはよきほどの上手も似合はぬことあり。たとひこれに相応するほどの無上の上手なりとも、また目利大所にてなくは、よく出来ることあるべからず。これ、能の位、仕手の位、目利、在所、時分、悉く相応せずは、出来ることは左右なくあるまじきなり。またちひさき能の、さしたる本説にてはなけれども、幽玄なるがほそぼそとしたる能あり。これは初心の仕手にも似合ふものなり。在所もしぜん片辺の神事、夜などの庭に相応すべし。よきほどの見手も能の仕手も、これに迷ひて、しぜん田舎小所の庭にておもしろければ、その心ならひにて、押出したる大所貴人の御前などにて、あるいは贔屓興行して、思ひの外に能わるければ、仕手にも名を折らせ、われも面目なきことあるものなり。然ればかやうなる品々所々を限らで、甲乙なからんほどの仕手ならでは、無上の花をきはめたる上手とは申すべからず。さるほどにいかなる座敷にも相応するほどの上手にいたりては、是非なし。また仕手によりて、上手ほどは能を知らぬ仕手もあり、能よりは能を知るもあり。貴所大所などにて、上手なれども能を仕ちがへ、ちちのあるは、能を知らぬ故なり。またそれほどに達者にもなく、物少ななる仕手の、申さば初心なるが、大庭にても花失せず、諸人の褒美弥ましにして、さのみにむらのなからんは、仕手よりは能を知りたる故なるべし。さるほどにこの両様の仕手を、とりどりに申すことあり。然れども貴所大庭などにて、あまねく能のよからんは、名望長久なるべし。さあらんにとりては、上手の達者ほどは我が能を知らざらんよりは、すこし足らぬ仕手なりとも能を知りたらんは、一座建立の棟梁には優るべきか。能を知りたる仕手は、わが手柄の足らぬ所をも知る故に、大事の能にかなはぬことをば斟酌して、得たる風体ばかりを先だてて仕立よければ、見所の褒美かならずあるべし。さてかなはぬ所をば、小所片辺の能に仕ならふべし。かやうに稽古すれば、かなはぬ所も劫入れば、しぜんしぜんにかなふ時分あるべし。さるほどに遂には能に嵩も出来、垢も落ちて、いよいよ名望も一座も繁昌するときは、さだめて年ゆくまで花は残るべし。これ初心より能を知る故なり。能を知る心にて公案を尽して見ば、花の種を知るべし。然れどもこの両様は、あまねく人の心々にて勝負をば定め給ふべし。花修已上。この条々、心ざしの芸人より外は、一見をもゆるすべからず。世阿(華押)

現代語訳

一、能のよい悪いにつけて、シテの力量(位)に応じた相応の程合いを知るべきである。文字や風体(技巧)に凝らず、大まかな能で、典拠が特に正しく、格が大きく高い能というものがある。こうした能は、見せ場がそれほど細かくないことがある。これにはそこそこの上手でも似合わないことがある。たとえこれに釣り合うほどの無上の上手であっても、また観客が目利きで大きな場でなければ、うまく成功することはない。つまり、能の格・シテの力量・観客・場所・時、これらがことごとく釣り合わなければ、成功することはまずありえないのだ。また小さな能で、大した典拠ではないが、幽玄で細やかな能がある。これは初心のシテにも似合うものだ。場所も自然と、片田舎の神事や夜などの庭にふさわしい。そこそこの観客もシテも、これに迷って、たまたま田舎の小さな場で面白かったので、その調子で、押し出した大きな場や貴人の御前などで、あるいはひいきの興行をして、思いのほか能が悪ければ、シテにも評判を落とさせ、自分も面目を失うことがあるものだ。だからこうした能の格や場所を限らず、どんな場でも優劣(甲乙)のないほどのシテでなければ、無上の花を極めた上手とは言えない。それゆえどんな座敷にも相応するほどの上手に至れば、文句なしである。またシテによって、上手なほどには能を知らないシテもあり、能(の演技)以上に能(の理)を知る者もある。貴人の場・大きな場などで、上手なのに能をしくじり、むらがあるのは、能を知らないからだ。またそれほど達者でもなく、芸の乏しいシテで、いわば初心の者が、大きな舞台でも花が失せず、人々の称賛がますます高まって、さほどむらがないのは、シテの技量以上に能の理を知っているからだろう。それゆえこの二種のシテを、それぞれに評することがある。しかし貴人の場や大きな舞台などで、広く能がよいのは、名声が長続きするだろう。そうであれば、上手で達者なほどには自分の能を知らない者よりは、少し技量が足りないシテでも能を知っている者の方が、一座を立て支える棟梁としては優れているのではないか。能を知っているシテは、自分の技量の足りない所をも知っているから、難しい能でかなわないことは控えめにして、身につけた風体だけを前面に立てて仕上げがよければ、観客の称賛は必ずある。そしてかなわない所は、小さな場・片田舎の能で稽古し慣れるとよい。このように稽古すれば、かなわない所も修練を積めば、自然と出来るようになる時が来るだろう。それゆえ最後には能に貫禄も出て、あかも落ちて、ますます名声も一座も繁盛するときは、きっと年を重ねるまで花は残るだろう。これは初心のうちから能の理を知っているからである。能を知る心で工夫を尽くしてみれば、花の種を知ることができる。とはいえこの二種のあり方は、広く人それぞれの心で優劣を判じられるがよい。花修、以上。これらの条々は、志ある芸人以外には、一見することも許してはならない。世阿(花押)

解説

この一節は、第六「花修」の締めくくりで、能の格とシテの力量、そして観客・場所・時の「相応(釣り合い)」を説きます。世阿弥は、格の高い大きな能は目利きの観客と大きな場を得なければ成功せず、逆に幽玄で細やかな小さな能は初心者や片田舎の庭にふさわしいと、能と場の適合を論じます。そのうえで、演技の達者さと「能を知る」ことは別だとし、技量が少し足りなくても能の理を知るシテの方が、一座を率いる棟梁には優れると評価します。自分の不得手を知り、得意な風体を前面に立て、苦手は小さな場で稽古を重ねよという成長論です。末尾の「志ある芸人以外に見せるな」という秘伝の言葉が、花修全体を締めます。現代にも通じます。実力を発揮できるかは場との相性次第であり、自分の強みと弱みを知って場を選び、苦手は小さく試して育てる。この自己認識こそ、長く咲き続ける花の種なのです。

この章句が説くこと

相応仕手の位能を知る一座建立の棟梁幽玄花の種

この一句を、あなたの毎日に。

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