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風姿花伝 / 第六 花修

一 作者の思ひ分くべき事ありひたすらしづかなる本木の音曲ばかりなるとまた舞はたらきのみなるとは一向なれば書きよきものなり音曲にてはたらく能あるべしこれ一大事なり真実おもしろしと感をなすはこれなり聞く所は耳近におもしろき言葉にて節のかかりよくて文字移りの美しくつづきたらんが殊更風情をもちたる詰を嗜みて書くべしこの数々相応する所にて諸人一同に感をなすなりさるほどにこまかに知るべき事あり風情を博士にて音曲をする仕手は初心のところなり音曲よりはたらきの生ずるは劫入りたる故なり音曲は聞く所風体は見る所なり一切の事は謂を道にしてこそよろづの風情にはなるべき理なれ謂をあらはすは言葉なりさるほどに音曲は体なり風情は用なり然れば音曲よりはたらきの生ずるは順なりはたらきにて音曲をするは逆なり諸道諸事において順逆とこそ下るべけれ逆順とはあるべからず返々音曲の言葉のたよりをもて風体を彩り給ふべきなりこれ音曲はたらき一心になる稽古なりさるほどに能を書くところにまた工夫あり音曲よりはたらきを生ぜさせんが為書くところをば風情を本に書くべし風情を本に書きてさてその言葉を謡ふときには風情おのづから生ずべし然れば書くところをば風情を先だててしかも謡の かかり よきやうに嗜むべしさて当座の芸能にいたるときはまた音曲を先とすべしかやうに嗜みて劫入りぬれば謡ふも風情舞ふも音曲になりて万曲一心たる達者となるべしこれまた作者の功名なり

書き下し

一、作者の思ひ分くべき事あり。ひたすらしづかなる本木の音曲ばかりなると、また舞はたらきのみなるとは、一向なれば書きよきものなり。音曲にてはたらく能あるべし、これ一大事なり。真実おもしろしと感をなすは、これなり。聞く所は耳近におもしろき言葉にて、節のかかりよくて、文字移りの美しくつづきたらんが、殊更風情をもちたる詰を嗜みて書くべし。この数々相応する所にて、諸人一同に感をなすなり。さるほどにこまかに知るべき事あり。風情を博士にて音曲をする仕手は、初心のところなり。音曲よりはたらきの生ずるは、劫入りたる故なり。音曲は聞く所、風体は見る所なり。一切の事は、謂を道にしてこそ、よろづの風情にはなるべき理なれ。謂をあらはすは言葉なり。さるほどに音曲は体なり、風情は用なり。然れば音曲よりはたらきの生ずるは順なり、はたらきにて音曲をするは逆なり。諸道諸事において、順逆とこそ下るべけれ、逆順とはあるべからず。返々音曲の言葉のたよりをもて、風体を彩り給ふべきなり。これ音曲はたらき一心になる稽古なり。さるほどに能を書くところに、また工夫あり。音曲よりはたらきを生ぜさせんが為、書くところをば風情を本に書くべし。風情を本に書きて、さてその言葉を謡ふときには、風情おのづから生ずべし。然れば書くところをば風情を先だてて、しかも謡のかかりよきやうに嗜むべし。さて当座の芸能にいたるときは、また音曲を先とすべし。かやうに嗜みて劫入りぬれば、謡ふも風情、舞ふも音曲になりて、万曲一心たる達者となるべし。これまた作者の功名なり。

現代語訳

一、作者が考え分けておくべきことがある。ひたすら静かで謡(音曲)ばかりの本と、また舞・所作ばかりの本とは、性格が一方に偏っているので書きやすいものだ。(難しいのは)謡の中で所作をする能で、これが一大事である。本当に面白いと感動が生まれるのは、この種の能なのだ。聞かせどころは耳になじんで面白い言葉で、節回しの調子がよく、文字の続き方が美しくつながっていて、とりわけ風情を持った見せ場(詰)を工夫して書くべきだ。これらがそろって釣り合う所で、人々はみな一斉に感動するのである。だから細かく知っておくべきことがある。詞章(風情)を頼りにして謡う(音曲を先に立てる)シテは、まだ初心の段階だ。謡から所作が自然に生まれてくるのは、修練を積んだ(劫入りた)からである。謡は聞く所、所作は見る所だ。すべての事は、意味(謂)を根本にしてこそ、あらゆる風情になるという道理である。意味を表すのは言葉だ。だから謡は体(本体)であり、所作(風情)は用(はたらき)である。したがって謡から所作が生まれるのは順であり、所作から謡をするのは逆だ。あらゆる道・事において、順逆の順で進むべきであって、逆順であってはならない。くれぐれも謡の言葉を手がかりにして、所作を彩っていくべきである。これが謡と所作がひとつの心になる稽古だ。だから能を書くときにも、また工夫がある。謡から所作を生じさせるために、書くときはまず風情(意味・詞章)を根本にして書くべきだ。風情を根本にして書いて、さてその言葉を謡うときには、風情は自然に生まれてくる。だから書くときは風情を先に立てて、しかも謡の調子がよくなるように工夫すべきである。さて実際の上演の場に至るときは、逆に謡を先に立てるべきだ。このように工夫して修練を積めば、謡っても風情があり、舞っても謡のようになって、あらゆる曲がひとつの心になる名手となるだろう。これもまた作者の手柄である。

解説

この一節は、能を「音曲(謡)」と「はたらき(舞・所作)」の関係からとらえた作者論です。世阿弥は、謡ばかり・所作ばかりの能は書きやすいが、謡の中で所作が生きる能こそ一大事で、真の感動はそこに生まれると説きます。そして「音曲は体なり、風情は用なり」と述べ、謡(意味・言葉)を本体、所作をそのはたらきと位置づけ、謡から所作が自然に生じる「順」を正しい修練とします。『風姿花伝』第六「花修」の作能論の核心で、脚本は風情(詞章)を根本に書き、上演では謡を先に立てるという、書と演の二段の工夫を示します。現代の表現や仕事にも通じます。まず意味・根拠という土台を固めてこそ、動きや演出が自然に生きてくる。順序を取り違えず、本体と応用を見分ける姿勢が、心に届く仕事を生むのです。

この章句が説くこと

音曲はたらき体と用順逆風情万曲一心

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