風姿花伝 / 第五 奥義
抑風姿花伝の条々大方外見の憚子孫の庭訓の為注すといへどもただ望むところの本意とは常世この道の輩を見るに芸の嗜みはおろそかにて非道のみ行じたまたま当芸にいたる時もただ一夕の顕証一旦の名利にそみて源を忘れて流を失ふこと道已に廃る時節とこれをなげくのみなり然れば道を嗜み芸を重んずるところわたくしなくばなどかその徳を得ざらん殊更この芸その風をつぐといへども自力より出づるふるまひあれば語にも及びがたしその風を得て心より心に伝ふる花なれば風姿花伝と名付く
書き下し
抑、風姿花伝の条々、大方外見の憚り、子孫の庭訓の為に注すといへども、ただ望むところの本意とは、常世この道の輩を見るに、芸の嗜みはおろそかにて、非道のみ行じ、たまたま当芸にいたる時も、ただ一夕の顕証、一旦の名利にそみて、源を忘れて流を失ふこと、道已に廃る時節とこれをなげくのみなり。然れば、道を嗜み芸を重んずるところ、わたくしなくば、などかその徳を得ざらん。殊更、この芸、その風をつぐといへども、自力より出づるふるまひあれば、語にも及びがたし。その風を得て、心より心に伝ふる花なれば、風姿花伝と名付く。
現代語訳
そもそも、この『風姿花伝』の条々は、おおむね世間の目をはばかり、また子孫への家の教えとして書き記すものではあるが、私が本当に望んでいる本意は次のことにある。常日頃この道の者たちを見ると、芸の稽古はおろそかにして道理に外れたことばかりを行い、たまたま芸の域に達したときも、ただ一夜かぎりの評判や一時の名声・利益に染まって、芸の根源を忘れ本筋を見失ってしまう。これは芸道がすでに廃れてしまう時節だと、私はただ嘆くばかりである。だから、道を修め芸を尊ぶところに私利私欲がなければ、どうしてその徳を得られないことがあろうか。とりわけこの芸は、その芸風を親から受け継ぐとはいっても、そこには自分の力から生み出す振る舞いがあるので、言葉で説き尽くすことは難しい。その芸風を体得し、心から心へと伝えていく花であるから、この書を『風姿花伝』と名付けるのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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風姿花伝・第五 奥義一、この寿福増長の嗜みと申せばとて、ひたすら世間の理にかかりて、若し欲心に住せば、これ第一、道の廃るべき因縁なり。道の為の嗜みには、寿福増長あるべし。寿福の為の嗜みには、道まさに廃るべし。道廃らば、寿福おのづから滅すべし。正直延命にして、世上万徳の妙花を開く因縁なりと嗜むべし。凡そ花伝の中、年来稽古より始めて、この条々を注すところ、全く自力より出づる才覚ならず。幼少以来、亡父の力を得て、人となりしより、二十余年が間、目にふれ耳に聞き置きしまま、その風を受けて、道の為家の為、これを作するところ、わたくしにあらんものか。于時応永第九之暦暮春二日、馳筆畢。世阿、在判。
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風姿花伝・第三 問答条々凡そ家を守り芸を重んずるによて、亡父の申し置きし事どもを心底にとどめて、大概を録する所、世のそしりを忘れて、道の廃れんことを思ふによりて、全他人の才覚に及ぼさんとにはあらず、ただ子孫の庭訓を残すのみなり。風姿花伝条々、以上。于時応永七年庚辰卯月十三日、従五位下左衛門大夫秦元清書。
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風姿花伝・第五 奥義凡そ能の名望を得ること、品々多し。上手は、目利かずの心に相かなふことかたし。下手は、目利の眼にあふことなし。下手にて目利の眼にかなはぬは、不審あるべからず。上手の、目利かずの心にあはぬこと、これは目利かずの眼の及ばぬところなれども、得たる上手にて工夫あらん仕手ならば、また目利かずの眼にもおもしろしと見るやうに、能をすべし。この工夫と達者とをきはめたらん仕手をば、花をきはめたるとや申すべき。されば、この位にいたらん仕手をば、いかに年よりたるとも、若き花に劣ることあるべからず。されば、この位を得たらん上手こそ、天下にもゆるされ、また遠国田舎の人までも、あまねくおもしろしとは見るべけれ。この工夫を得たらん仕手は、和州へも江州へも、若しは田楽の風体までも、人の好み望みによりて、いづれにもわたる上手なるべし。この嗜みの本意を顕さんが為、風姿花伝を作するなり。かやうに申せばとて、我風体の形木のおろそかならむは、殊に殊に能の命あるべからず。これ弱き仕手なるべし。我風体の形木をきはめてこそ、あまねき風体をも知りたるにてはあるべけれ。あまねき風体を心にかけんとて、我形木に入らざらむ仕手は、わが風体を知らぬのみならず、よその風体をも、たしかにはまして知るまじきなり。されば、能弱くて久しく花はあるべからず。久しく花のなからんは、いづれの風体をも知らぬに同じかるべし。然れば花伝の花の段に、物数を尽し工夫をきはめて後、花の失せぬ所をば知るべしといへり。
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風姿花伝・第五 奥義秘義にいふ、抑芸能とは、諸人の心をやはらげて、上下の感をなさんこと、寿福増長の基、遐齢延年の法なるべし。きはめきはめては、諸道悉くに寿福増長ならんとなり。殊更、この芸、位をきはめて佳名を残すこと、これ天下のゆるされなり。これ寿福増長なり。然れども、殊に故実あり。上根上智の眼に見ゆるところ、長位のきはまりたる仕手におきては、相応至極なれば是非なし。凡そおろかなる輩、遠国田舎の賤しき眼には、この長位のあがれる風体、及びがたし。これを如何にすべき。この芸とは、衆人愛敬をもて、一座建立の寿福とせり。故に、あまり及ばぬ風体のみなれば、また諸人の褒美欠けたり。この為、能に初心を忘れずして、時に応じ所によりて、おろかなる眼にもげにもと思ふやうに能をせむこと、これ寿福なり。よくよくこの風俗をきはめ見るに、貴所・宮寺・田舎・遠国・諸社の祭礼にいたるまで、おしなべてそしりを得ざらんを、寿福達人の仕手とは申すべきか。さればいかなる上手なりとも、衆人愛敬欠けたる所あらんをば、寿福増長の仕手とは申しがたし。しかるに亡父は、いかなる田舎山里の片辺にても、その心を受けて、所の風儀を一大事にかけて芸をせしなり。かやうに申せばとて、初心の人、それほどはなにとて左右なくきはむべきと、退屈の儀はあるべからず。この条々を心底にあてて、その理をちちと取りて、了簡をもて我分力にひきあはせて、工夫を致すべし。凡そいまの条々工夫は、初心の人よりは、なほ上手におきての故実工夫なり。たまたま得たる上手になりたる仕手も、身をたのみ名にばかされて、この故実なくて、いたづらに名望よりは寿福に欠けたる人多き故に、これをなげくなり。得たる所あれども、工夫なくてはかなはず。得て工夫あらんは、花に種をそへたらんがごとし。たとひ天下にゆるされを得たるほどの仕手も、力なき因果にて、万一少し廃るる時分ありとも、田舎遠国の褒美の花失せずば、ふつと道の絶ゆることはあるべからず。道絶えずは、また天下の時にあふことあるべし。
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風姿花伝・第七 別紙口伝一、この別紙の条々、先年、弟四郎に相伝するといへども、元次、芸能感人たるによて、これをまた伝ふところなり。秘伝之。応永二十五年六月一日 世阿 花押
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風姿花伝・第七 別紙口伝一、この別紙の口伝、当芸において家の大事、一代一人の相伝なり。たとひ一子たりといふとも、不器量の者には伝ふべからず。「家家にあらず、つづくをもて家とす。人人にあらず、知るをもて人とす」といへり。これ、万徳了達の妙花をきはむるところなるべし。