風姿花伝 / 第三 問答条々
問能に得手得手とて殊の外に劣りたる仕手も一向上手にまさりたる所ありこれを上手のせぬはかなはぬやらんまたすまじき事にてせぬやらん答一切の事に得手とて生得得たる所あるものなり位はまさりたれどもこれはかなはぬ事ありさりながらこれもただよきほどの上手の事にての了簡なりまことに能と工夫とのきはまりたらん上手はなにかいづれの向をもせざらむされば能と工夫とをきはめたる仕手万人が中に一人もなき故なりなきとは工夫はなくて慢心ある故なり抑聖人の一失愚人の一得と申すことあり上手にもわるき所あり下手にもよき所かならずあるものなりこれを見る人もなし主もしらず上手は名をたのみ達者にかくされてわるき所を知らず下手は工夫なければわろき所をも知らねばよき所のたまたまあるをもわきまへずされば上手も下手もたがひに人に尋ぬべしさりながら能と工夫をきはめたらむ者これを知るべしいかなるおかしき仕手なりともよき所ありと見ば上手もこれを学ぶべしこれ第一の手立なり若しよき所を見たりとも我より下手をば似すまじきと思ふ諍識あらばその心に繋縛せられて我わろき所をもいかさま知るまじきなりこれすなはちきはめぬ心なるべしまた下手も上手のわろき所若し見えば上手だにもわろき所ありいはんや初心の我なればさこそわろき所多かるらめと思ひてこれをおそれて人にも尋ね工夫をいたさばいよいよ稽古になりて能は早くあがるべし若しさはなくて我はあれ体にわろき所をばすまじきものをと慢心あらば我よき所をも真実知らぬ仕手なるべしよき所を知らねばわるき所をもよしと思ふなりさるほどに年はゆけども能はあがらぬなりこれすなはち下手の心なりされば上手にだにも上慢あらばわろかるべしいはんやかなはぬ諍識をやよくよく公案して思へ上手は下手の手本 下手は上手の手本なりと工夫すべし下手のよき所を取りて上手の物数に入る事無上至極の理なり人のわろき所を見るだにも我手本なりいはんやよき所をや稽古は強かれ 諍識はなかれとはこれなるべし
書き下し
問、能に得手得手とて、殊の外に劣りたる仕手も、一向上手にまさりたる所あり。これを上手のせぬは、かなはぬやらん、またすまじき事にてせぬやらん。答、一切の事に得手とて、生得得たる所あるものなり。位はまさりたれども、これはかなはぬ事あり。さりながら、これもただよきほどの上手の事にての了簡なり。まことに能と工夫とのきはまりたらん上手は、なにかいづれの向をもせざらむ。されば能と工夫とをきはめたる仕手、万人が中に一人もなき故なり。なきとは、工夫はなくて慢心ある故なり。抑、聖人の一失、愚人の一得と申すことあり。上手にもわるき所あり、下手にもよき所かならずあるものなり。これを見る人もなし、主もしらず。上手は名をたのみ、達者にかくされてわるき所を知らず。下手は工夫なければ、わろき所をも知らねば、よき所のたまたまあるをもわきまへず。されば上手も下手も、たがひに人に尋ぬべし。さりながら、能と工夫をきはめたらむ者これを知るべし。いかなるおかしき仕手なりとも、よき所ありと見ば、上手もこれを学ぶべし。これ第一の手立なり。若しよき所を見たりとも、我より下手をば似すまじきと思ふ諍識あらば、その心に繋縛せられて、我わろき所をもいかさま知るまじきなり。これすなはちきはめぬ心なるべし。また下手も、上手のわろき所若し見えば、上手だにもわろき所あり、いはんや初心の我なれば、さこそわろき所多かるらめと思ひて、これをおそれて人にも尋ね、工夫をいたさば、いよいよ稽古になりて能は早くあがるべし。若しさはなくて、我はあれ体にわろき所をばすまじきものをと慢心あらば、我よき所をも真実知らぬ仕手なるべし。よき所を知らねば、わるき所をもよしと思ふなり。さるほどに、年はゆけども能はあがらぬなり。これすなはち下手の心なり。されば上手にだにも上慢あらばわろかるべし。いはんやかなはぬ諍識をや。よくよく公案して思へ、上手は下手の手本、下手は上手の手本なりと工夫すべし。下手のよき所を取りて上手の物数に入る事、無上至極の理なり。人のわろき所を見るだにも我手本なり、いはんやよき所をや。稽古は強かれ、諍識はなかれとは、これなるべし。
現代語訳
問い。能に得手得手があって、格別に劣った演者でも、ある一点では名手にまさっているところがある。これを名手がしないのは、できないのか、それともすべきでない事だからしないのか。答え。すべての事に得手といって、生まれつき体得している所があるものだ。位はまさっていても、これはかなわないことがある。とはいえ、これもほどほどの名手の場合の見当である。まことに能と工夫とを究めた名手は、どの方面でもしないことがあろうか(何でもできる)。しかし、能と工夫とを究めた演者は、万人の中に一人もいないからだ。いないというのは、工夫がなくて慢心があるからだ。そもそも「聖人の一失、愚人の一得」ということわざがある。名手にも悪い所があり、下手にも良い所が必ずあるものだ。これを見る人もいないし、本人も知らない。名手は名声を頼み、達者な芸に隠されて悪い所を知らない。下手は工夫がないので、悪い所も知らず、良い所がたまたまあってもわきまえない。だから名手も下手も、互いに人に尋ねるべきだ。とはいえ、能と工夫を究めた者はこれを知るはずだ。どんなにおかしな(未熟な)演者であっても、良い所があると見れば、名手もこれを学ぶべきだ。これが第一の手立てである。もし良い所を見ても、自分より下手の芸は真似すまいと思う片意地(諍識)があれば、その心に縛られて、自分の悪い所もどうしても知ることができない。これがすなわち究めない心である。また下手も、名手の悪い所がもし見えれば、名手にさえ悪い所がある、まして初心の自分なら、さぞ悪い所が多かろうと思って、これを恐れて人にも尋ね、工夫をこらせば、いよいよ稽古になって能は早く上達するはずだ。もしそうでなくて、自分はあんなふうに悪くはしないものをと慢心があれば、自分の良い所も本当には知らない演者である。良い所を知らなければ、悪い所も良いと思ってしまう。そうして年はいっても能は上達しない。これがすなわち下手の心である。だから名手にさえ増上慢があれば良くない。まして、かなわない片意地は言うまでもない。よくよく工夫して思え、「上手は下手の手本、下手は上手の手本」であると。下手の良い所を取って名手の芸に取り入れることは、この上ない究極の道理である。人の悪い所を見るのさえ自分の手本だ、まして良い所は言うまでもない。「稽古は強かれ、諍識はなかれ」とは、このことである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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尚書・西伯戡黎我が生、命は天に在るに非ずや。
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徒然草・第167段一道に携はる人、あらぬ道の席に臨みて、「あはれ我が道ならましかば、かくよそに見侍らじものを。」といひ、心にも思へる事、常のことなれど、世にわろく覚ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覚えば、「あな羨まし、などか習はざりけむ。」と言ひてありなむ。我が智を取り出でて人に争ふは、角あるものの角をかたぶけ、牙あるものの牙を噛み出す類なり。人としては善にほこらず、物と争はざるを徳とす。他に勝る事のあるは大きなる失なり。品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉にても、人にまされりと思へる人は、たとひ詞に出でてこそいはねども、内心に若干の科あり。謹みてこれを忘るべし。をこにも見え、人にもいひけたれ、禍ひをも招くは、たゞこの慢心なり。一道にもまことに長じぬる人は、みづから明らかにその非を知るゆゑに、志常に満たずして、つひに物に誇ることなし。
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尚書・周官寵に居りて危うきを思い、畏れざる罔く、畏れざれば畏るるに入る。
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葉隠・聞書第一順境には自慢と奢りがあぶなきなり。その時は、日頃の倍(ばい)慎まねば、追ひ付かざるなり。よき時進む者は、悪しき時草臥(くたび)るるものなり。
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葉隠・聞書第二奉公の志の出来ぬも自慢故なり。我をよしと思い、贔屓(ひいき)の上から理を附けて、悪(わる)がたまりにかたまり、一世帯構えて済まして居る故なり。歎かしき事なり。富貴器量発明、何ぞ一つの取柄に自慢して、我とれにて済むと思うより、心闇(くら)く、人に向い尋ねもせず、一生をあらぬ事して果すなり。よくよく慢心はあるものなれ共、何某(なにがし)は御家中一番のたわけなるが、たわけに自慢して、『我はたわけたる故身上(しんしょう)悪しなし。』当介(とうかい)を思い、自慢を捨て、我が非を知り、何とすればよきものかと探促したるとなり。奉公の志と云うは別の事なし。一生成就せず探促仕(つかまつ)り死に極るなり。非を知って探促するが即ち道なり。
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尚書・仲虺之誥徳日(ひ)に新たなれば、万邦惟(こ)れ懐(なつ)く。志自(みずか)ら満つれば、九族乃(すなわ)ち離る。