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風姿花伝 / 第三 問答条々

問この勝負においてこれに大いなる不審ありはや劫入りたる仕手のしかも名人なるにただ今の若仕手の立合に勝つことありこれ不審なり答これこそ先に申しつる三十以前の時分の花なれふるき仕手ははや花失せて古様なる時分にめづらしき花にて勝つことあり真実の目利は見分くべしさあらば目利目利かずの批判の勝負になるべきかさりながら様あり五十以来まで花の失せざらんほどの仕手はいかなる若き花なりとも勝つことはあるまじただこれよきほどの上手の花失せたる故に負くることありいかなる名木なりとも花の咲かぬときの木をや見ん犬桜の一重なりとも初花色々と咲けるをや見んかやうのたとへを思ふときは一旦の花なりとも立合に勝つは理なりされば肝要この道はただ花が能の命なるを花の失するをも知らず本の名望ばかりをたのむこと古仕手の返々のあやまりなり物数をば似せたりとも花のあるやうを知らざらんは花咲かぬときの草木をあつめて見んがごとし万木千草において花の色は皆々異なれどもおもしろしと見る心は同じ花なり物数は少くとも一向の花をとりきはめたらん仕手は一体の名望は久しかるべしされば主の心には随分花ありと思へども人の目に見ゆる公案なからんは田舎の花やぶ梅などのいたづらに咲き匂はんがごとしまた同じ上手なりともそのうちにて重々あるべしたとひ随分きはめたる上手名人なりともこの花の公案なからん仕手は上手にては通るとも花は後まではあるまじきなり公案をきはめたらん上手はたとひ能はさがるとも花は残るべし花だに残らばおもしろさは一期あるべしさればまことの花の残りたる仕手にはいかなる若き仕手なりとも勝つことはあるまじきなり

書き下し

問、この勝負においてこれに大いなる不審あり。はや劫入りたる仕手の、しかも名人なるに、ただ今の若仕手の立合に勝つことあり。これ不審なり。答、これこそ先に申しつる、三十以前の時分の花なれ。ふるき仕手ははや花失せて、古様なる時分に、めづらしき花にて勝つことあり。真実の目利は見分くべし。さあらば、目利目利かずの批判の勝負になるべきか。さりながら様あり。五十以来まで花の失せざらんほどの仕手は、いかなる若き花なりとも勝つことはあるまじ。ただこれ、よきほどの上手の花失せたる故に負くることあり。いかなる名木なりとも、花の咲かぬときの木をや見ん。犬桜の一重なりとも、初花色々と咲けるをや見ん。かやうのたとへを思ふときは、一旦の花なりとも立合に勝つは理なり。されば肝要、この道はただ花が能の命なるを、花の失するをも知らず、本の名望ばかりをたのむこと、古仕手の返々のあやまりなり。物数をば似せたりとも、花のあるやうを知らざらんは、花咲かぬときの草木をあつめて見んがごとし。万木千草において、花の色は皆々異なれども、おもしろしと見る心は同じ花なり。物数は少くとも、一向の花をとりきはめたらん仕手は、一体の名望は久しかるべし。されば主の心には随分花ありと思へども、人の目に見ゆる公案なからんは、田舎の花やぶ梅などのいたづらに咲き匂はんがごとし。また同じ上手なりとも、そのうちにて重々あるべし。たとひ随分きはめたる上手名人なりとも、この花の公案なからん仕手は、上手にては通るとも、花は後まではあるまじきなり。公案をきはめたらん上手は、たとひ能はさがるとも、花は残るべし。花だに残らば、おもしろさは一期あるべし。されば、まことの花の残りたる仕手には、いかなる若き仕手なりとも、勝つことはあるまじきなり。

現代語訳

問い。この勝負について大きな疑問がある。もう年功を積んだ、しかも名人である演者が、当今の若い演者との立合に負けることがある。これが不審だ。答え。これこそ先に述べた、三十歳以前の時分の花である。古参の演者はもう花が失せて古めかしくなった時分に、若手の珍しい花に負けることがあるのだ。真の目利きは見分けられるはずだ。それなら、目利きと目利きでない者の批判(評価)によって勝負が決まるということか。とはいえ事情がある。五十歳まで花が失せないほどの演者は、どんな若い花にも負けることはない。ただ、ほどほどの名手の花が失せたために負けることがあるのだ。どんな名木であっても、花の咲かないときの木を誰が見ようか。犬桜の一重咲きであっても、初花が色々と咲いているのを見るだろう。こうしたたとえを思えば、一時の花であっても立合に勝つのは道理だ。だから肝要なのは、この道はただ花こそ能の命であるのに、その花が失せていくことも知らず、もとの名声ばかりを頼みにすること、これが古参演者の返す返すの誤りである。芸の型(物数)をいくら似せても、花のあり方を知らないのは、花の咲かないときの草木を集めて見るようなものだ。あらゆる木や草において、花の色はそれぞれ異なるが、面白いと見る心は同じ花である。芸の数は少なくても、ひとすじの花を究めた演者は、その名声は長く続くだろう。だから、自分の心では十分に花があると思っても、人の目に見える工夫(公案)がないのは、田舎の花藪や梅などがむなしく咲き匂うようなものだ。また同じ名手でも、その中にさまざまな段階がある。たとえ十分に究めた名手・名人であっても、この花の工夫のない演者は、名手としては通っても、花は晩年まで残らないだろう。工夫を究めた名手は、たとえ芸の力が下がっても花は残る。花さえ残れば、面白さは一生涯あるだろう。だから、まことの花が残った演者には、どんな若い演者でも勝つことはないのである。

解説

この一節は、年功を積んだ名人が若手に立合で負けることがある、という疑問への答えです。世阿弥は、それを若さゆえの一時的な時分の花と説き、一方で五十歳まで失せないまことの花を持つ者は誰にも負けないと述べます。名声に安住して花の衰えに気づかない古参の姿を、花の咲かぬ木にたとえて戒めました。芸の型(物数)をいくら似せても、花のあり方を知らなければ意味がないという、本書の核心である花論の到達点です。問答条々の中でも最も名高い段の一つです。過去の実績や肩書きに頼らず、人を惹きつける本質的な魅力を磨き続けよという教えは、キャリアの長い人ほど響きます。今の自分の花は本物か、それとも一時のものか。問い直しを促す一節です。

この章句が説くこと

時分の花まことの花立合名望公案花は能の命

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

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