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風姿花伝 / 第三 問答条々

問抑申楽を始むるに当日にのぞんで先づ座敷を見て吉凶をかねて知る事はいかなる事ぞや答この事一大事なりその道に得たらん人ならでは心得べからず先づその日の庭を見るに今日は能よく出来べきあしく出来べき瑞相あるべしこれ申しがたし然れどもおよその了簡をもて見るに神事貴人の御前などの申楽に人群集して座敷いまだしづまらずさるほどにいかにもいかにもしづめて見物衆申楽を待ちかねて数万人の心一同に遅しと楽屋を見るところに時を得て出で一声をもあぐればやがて座敷も時の調子に移りて万人の心仕手のふるまひ和合してしみじみとなればなにとするもその日の申楽ははやよしさりながら申楽は貴人の御出を本とすれば若しはやく御出あるときはやがて始めずしてはかなはずさるほどに見物の衆の座敷いまだ定まらず或は遅ればせなどにて人の立居しどろにして万人の心いまだ能にならずされば左右なくしみじみとなることなしさやうならんときの脇の能には物になりて出づるとも日来より色々と振をもつくろひ声をも強々とつかひ足ふみをも少し高く踏み立ちふるまふ風情をも人の目にたつやうにいきいきとすべしこれ座敷をしづめん為なりさやうならんにつけても殊更その貴人の御心にあひたらん風体をすべしさればかやうなるときの脇の能十分によからんこと返々あるまじきなり然れども貴人の御意にかなへるまでなればこれ肝要なりなにとしても座敷のはやしづまりておのづから浸みたるにはわろきことなしされば座敷の気勢気後をかんがへて見ることその道に長ぜざらん人は左右なく知るまじきなりまたいふ夜の申楽ははたと変るなり夜は遅く始まれば定まりて浸めるなり脇の申楽湿りたちぬればそのまま能はなほらずいかにもいかにもよき能を利かすべし夜は人音騒々なれども一声にてやがてしづまるなり然れば昼の申楽は後がよく夜の申楽は指寄よし指寄湿りたちぬればなほる時分左右なくなし秘義にいふ抑一切は陰陽の和する所の境を成就とは知るべし昼の気は陽気なりさればいかにもしづめて能をせんと思ふ巧は陰の気なり陽気の時分に陰の気を生ずること陰陽和する心なりこれ能のよく出来る成就の初なりこれおもしろしと見る心なり夜はまた陰なればいかにも浮々とやがてよき能をして人の心花めくは陽なりこれ夜の陰に陽気を和する成就なりされば陽の気に陽とし陰の気に陰とせば和する所あるまじければ成就もあるまじ成就なくばなにかおもしろからんまた昼のうちにても時によりてなにとやらん座敷を湿りてさびしきやうならばこれ陰の時と心得てしづまらぬやうに心を入れてすべし昼はかやうに時によりて陰気になることありとも夜の気の陽にならんこと左右なくあるまじきなり座敷をかねて見るとはこれなるべし

書き下し

問、抑申楽を始むるに、当日にのぞんで先づ座敷を見て吉凶をかねて知る事は、いかなる事ぞや。答、この事一大事なり。その道に得たらん人ならでは心得べからず。先づその日の庭を見るに、今日は能よく出来べき、あしく出来べき瑞相あるべし。これ申しがたし。然れども、およその了簡をもて見るに、神事貴人の御前などの申楽に、人群集して座敷いまだしづまらず。さるほどに、いかにもいかにもしづめて、見物衆申楽を待ちかねて、数万人の心一同に遅しと楽屋を見るところに、時を得て出で、一声をもあぐれば、やがて座敷も時の調子に移りて、万人の心仕手のふるまひ和合してしみじみとなれば、なにとするもその日の申楽ははやよし。さりながら、申楽は貴人の御出を本とすれば、若しはやく御出あるときは、やがて始めずしてはかなはず。さるほどに、見物の衆の座敷いまだ定まらず、或は遅ればせなどにて、人の立居しどろにして、万人の心いまだ能にならず。されば左右なくしみじみとなることなし。さやうならんときの脇の能には、物になりて出づるとも、日来より色々と振をもつくろひ、声をも強々とつかひ、足ふみをも少し高く踏み立ち、ふるまふ風情をも人の目にたつやうにいきいきとすべし。これ座敷をしづめん為なり。さやうならんにつけても、殊更その貴人の御心にあひたらん風体をすべし。されば、かやうなるときの脇の能十分によからんこと、返々あるまじきなり。然れども、貴人の御意にかなへるまでなれば、これ肝要なり。なにとしても、座敷のはやしづまりて、おのづから浸みたるにはわろきことなし。されば座敷の気勢気後をかんがへて見ること、その道に長ぜざらん人は左右なく知るまじきなり。またいふ、夜の申楽ははたと変るなり。夜は遅く始まれば、定まりて浸めるなり。脇の申楽湿りたちぬれば、そのまま能はなほらず。いかにもいかにもよき能を利かすべし。夜は人音騒々なれども、一声にてやがてしづまるなり。然れば、昼の申楽は後がよく、夜の申楽は指寄よし。指寄湿りたちぬれば、なほる時分左右なくなし。秘義にいふ、抑一切は陰陽の和する所の境を成就とは知るべし。昼の気は陽気なり。さればいかにもしづめて能をせんと思ふ巧は陰の気なり。陽気の時分に陰の気を生ずること、陰陽和する心なり。これ能のよく出来る成就の初なり。これおもしろしと見る心なり。夜はまた陰なれば、いかにも浮々とやがてよき能をして、人の心花めくは陽なり。これ夜の陰に陽気を和する成就なり。されば陽の気に陽とし、陰の気に陰とせば、和する所あるまじければ、成就もあるまじ。成就なくば、なにかおもしろからん。また昼のうちにても、時によりてなにとやらん座敷を湿りてさびしきやうならば、これ陰の時と心得て、しづまらぬやうに心を入れてすべし。昼はかやうに時によりて陰気になることありとも、夜の気の陽にならんこと、左右なくあるまじきなり。座敷をかねて見るとは、これなるべし。

現代語訳

問い。そもそも申楽(能)を始めるにあたって、当日その場に臨み、まず座敷(会場・観客席)の様子を見て、出来の吉凶をあらかじめ知るとは、どういうことか。答え。これは重大な事柄で、この道を体得した人でなければ会得できない。まずその日の庭(場)を見ると、今日は能がよく出来そうだ、あるいはうまくいかなそうだという前兆があるものだ。これは言葉で説明しにくい。しかしおおよその見当を言えば、神事や貴人の御前などの申楽では、人が群集して座敷がまだ静まらない。そうしたときは、なんとしても場を静め、見物衆が申楽を待ちかね、数万人の心がそろって「早く」と楽屋を見ているところに、頃合いを得て登場し第一声を発すれば、やがて座敷もその場の調子に移り、万人の心と演者(仕手)の所作とが和合してしみじみと落ち着く。そうなれば、何をやってもその日の申楽はもう上出来だ。とはいえ、申楽は貴人のお出ましを本義とするから、もし早くお出ましがあれば、すぐ始めねばならない。すると見物衆の座敷はまだ定まらず、遅れて来る者などで人の出入りが乱れ、万人の心がまだ能に集中していない。だから容易にしみじみと落ち着くことがない。そういうときの脇(最初)の能では、登場してからも日頃より色々と所作を工夫し、声も強々と使い、足踏みも少し高く踏み立て、ふるまう風情も人の目に立つように生き生きとすべきだ。これは座敷を静めるためである。それでも、とりわけその貴人の御心にかなう芸風にすべきだ。だから、こうしたときの脇の能が十分に良く出来ることは、まずめったにない。しかし貴人の御意にかなうまでのことであれば、それが肝要だ。何にせよ、座敷が早く静まって自然に浸り込んだ状態には悪いことはない。だから座敷の気勢や気後れを見きわめることは、この道に熟達しない人には容易に分からない。また言う。夜の申楽はがらりと変わる。夜は遅く始まるので、決まって静まっている。最初の申楽がしっとり落ち着いてしまえば、そのまま調子は直らないから、なんとしても良い能を利かせるべきだ。夜は人の物音が騒がしくても、第一声ですぐ静まる。だから昼の申楽は後半が良く、夜の申楽は最初(指寄)が良い。最初がしっとり落ち着いてしまえば、後で直る機会は容易にない。秘義に言う。そもそも一切は、陰と陽が和合する境地を「成就」と知るべきだ。昼の気は陽気である。だから、なんとしても静めて能をしようと思う工夫は陰の気だ。陽気の時分に陰の気を生じさせるのが、陰陽が和合する心である。これが能のよく出来る成就の初めであり、面白いと見る心だ。夜はまた陰なので、なんとも浮き浮きと、すぐ良い能をして人の心を華やがせるのが陽である。これが夜の陰に陽気を和合させる成就だ。だから陽の気にさらに陽を、陰の気にさらに陰を重ねれば、和合するところがなく成就もない。成就がなければ何が面白かろうか。また昼のうちでも、時によってなんとなく座敷がしめって寂しいようなら、これは陰の時と心得て、静まらないよう気を入れてすべきだ。昼はこのように時に陰気になることがあっても、夜の気が陽になることは決してない。座敷をあらかじめ見るとは、こういうことである。

解説

この一節は、演能の当日、舞台に立つ前に会場と観客の空気を読み、その日の出来を予見する心得を説いています。世阿弥は、昼と夜、神事や貴人の御前といった場ごとに客席の気が異なることを見抜き、陰陽の調和という原理でとらえました。昼(陽)の座敷は静める工夫(陰)を、夜(陰)の座敷は華やぐ演技(陽)をぶつけてこそ成就が生まれると言います。問答条々の中でも、芸そのものより場の力学を論じた実践的な章です。相手や状況に合わせて出方を変えるこの発想は、現代のプレゼンや会議、接客にも通じます。聴衆の温度を読み、空気が硬ければ動きで惹きつけ、緩んだ場では静かに引き込む。場を支配する前にまず場を読むという教えは、人前で表現するあらゆる仕事の基本と言えるでしょう。

この章句が説くこと

座敷吉凶陰陽成就昼と夜脇の能

この一句を、あなたの毎日に。

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