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福沢諭吉小品集 / 人生の楽事・第4段

斯の如くすれば万事不取締にして迚も実効を奏することなしと思う者こそ多かるべけれども、元来学者の学を好むは酒客の酒に於けるが如くにして、傍より之を制すべからざるのみか、自から禁ずること能わざる所のものなれば、所謂飼放しはその勉強を促すの方便にして、俗界に喋々する規則取締等こそ真に学思を妨るの害物なりと知るべし。凡そこの辺の趣向にしたらば、日本の学者も始めて能くその本色を現わして辛苦勉励、心身の力を尽し、遂に造化の秘密を摘発して世界中の物理学に新面目を開くこともあるべし。試に実際の費用を概算するに、十名の学者に一年千二百円を給して共計一万二千円(この種の学者は世間に交際も少なく、衣食住の辺幅を張らんとするが如き俗念もなく、物外に独立して他を顧みざること恰も仙人の如き者なれば、一年の生計千二百円にて十分なるべし)。この外に一名に付き毎年凡そ二、三百円を生命保険に掛けて死後の安心を得せしむるの要もあれば、学者の身に費すもの凡そ一万五千円として、他は研究の費用なり。その高は際限なきことなれども、仮に先ず三万五千円とすれば、両様合して五万円を毎年消費する勘定なり。或は右の如く計画しても、十名中に死する者もあらん、又は中途にして研究所を脱する者もあらん、又は不徳義にして怠る者もあらんなれども、十名共に全璧ならんことを望むは有情の世界に無理なる注文にこそあれば、十中の五にても三にても、前後節を改めずして確乎たる者あれば以て足るべし。一人の学力能く全世界を動かすの例あり。期する所は唯その学問の高尚深遠に在るのみ。

書き下し

斯の如くすれば万事不取締にして迚も実効を奏することなしと思う者こそ多かるべけれども、元来学者の学を好むは酒客の酒に於けるが如くにして、傍より之を制すべからざるのみか、自から禁ずること能わざる所のものなれば、所謂飼放しはその勉強を促すの方便にして、俗界に喋々する規則取締等こそ真に学思を妨るの害物なりと知るべし。凡そこの辺の趣向にしたらば、日本の学者も始めて能くその本色を現わして辛苦勉励、心身の力を尽し、遂に造化の秘密を摘発して世界中の物理学に新面目を開くこともあるべし。試に実際の費用を概算するに、十名の学者に一年千二百円を給して共計一万二千円(この種の学者は世間に交際も少なく、衣食住の辺幅を張らんとするが如き俗念もなく、物外に独立して他を顧みざること恰も仙人の如き者なれば、一年の生計千二百円にて十分なるべし)。この外に一名に付き毎年凡そ二、三百円を生命保険に掛けて死後の安心を得せしむるの要もあれば、学者の身に費すもの凡そ一万五千円として、他は研究の費用なり。その高は際限なきことなれども、仮に先ず三万五千円とすれば、両様合して五万円を毎年消費する勘定なり。或は右の如く計画しても、十名中に死する者もあらん、又は中途にして研究所を脱する者もあらん、又は不徳義にして怠る者もあらんなれども、十名共に全璧ならんことを望むは有情の世界に無理なる注文にこそあれば、十中の五にても三にても、前後節を改めずして確乎たる者あれば以て足るべし。一人の学力能く全世界を動かすの例あり。期する所は唯その学問の高尚深遠に在るのみ。

現代語訳

このようにすれば、万事取り締まりがなく、とても成果を上げることはできないと思う者がきっと多いでしょうが、そもそも学者が学問を好むのは、酒好きが酒を好むようなもので、傍から制止できないばかりか、自分で禁じることもできないものですから、いわゆる飼い放しは、その勉強を促す手立てであり、俗界でやかましく言う規則や取り締まりこそ、真に学問と思索を妨げる害物だと知るべきです。およそこの辺りの趣向にすれば、日本の学者も、はじめてその本領を現し、辛苦勉励して心身の力を尽くし、ついに造化の秘密を暴き、世界中の物理学に新しい面目を開くこともあるでしょう。試みに実際の費用を概算すれば、十名の学者に一年千二百円を給し、合計一万二千円(この種の学者は世間の付き合いも少なく、衣食住の見栄を張ろうとするような俗念もなく、俗世の外に独立して他を顧みないこと、まるで仙人のようなものですから、一年の生計は千二百円で十分でしょう)。このほかに、一名につき毎年およそ二、三百円を生命保険に掛けて、死後の安心を得させる必要もあるので、学者の身に費やすものはおよそ一万五千円とし、あとは研究の費用です。その額は際限がありませんが、仮に三万五千円とすれば、両方合わせて五万円を毎年消費する勘定です。あるいは、右のように計画しても、十名のうちには死ぬ者もあるでしょうし、途中で研究所を去る者もあるでしょうし、不徳義で怠ける者もあるでしょうが、十名とも完璧であることを望むのは、感情のある人間の世界には無理な注文ですから、十人のうち五人でも三人でも、前後を通じて節を改めず、しっかりとした者があれば、それで十分です。一人の学力が全世界を動かす例もあります。期待するところは、ただその学問の高尚深遠にあるだけです。

解説

飼い放しは放任ではなく、学問を好む人の意欲を引き出す手段だと福沢は述べ、規則や取り締まりのほうが思索を妨げると逆転して見せます。さらに年間五万円という具体的な概算を示し、十名全員が成功する必要はなく、五人でも三人でも確かな者がいればよい、と成果の確率にも冷静です。失敗を前提にした投資という考え方は、現代の新規事業や研究開発にも通じます。一人の学力が世界を動かす例もある、という言葉は、少数への投資の価値を語ります。ただし人選の難しさは、福沢も十分に論じていません。

この章句が説くこと

飼い放し概算五万円生命保険全璧学力

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