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福沢諭吉小品集 / 人生の楽事・第2段

この時に当り一意専心、物理を探究して、造化の秘密を開くは人間無上の快楽にして、王公の富貴栄華も羨むに足らず。之を眼下に見てその生活の卑俗なるを憐むと同時に、自家の空想を逞うし、例えば動植物生々の理、地球の組織又その天体との関係、化学の働は果して何れの辺にまで達すべきや、宇宙勢力の原則は果して既に定まりたるや否や、など仔細に之を思えば千百の疑問際限あるべからず。満目恰も造化の秘密に囲まれて唯人智の浅弱を嘆ずるのみなれども、いよ/\進んでいよ/\深きに達し、曾て底止する所を知らざるも亦是れ人生の約束なれば、勇を鼓して知見の区域を拡め、恰も化翁と境を争うは是れぞ学者の本領なりと深く信じて之を疑わず、殊に我日本国人の性質を見るに、西洋文明の新事を知りしは輓近のことなれども、知識の教育練磨は千百年来生々の遺伝に存して、新事の理を解するに苦しまざるのみか、起首原造の天資に乏しからずして、洋学開始以来単に西洋を学ぶの時代は既に経過し、今は学問場裡に彼我併立の勢を成して、今後我学者の勉る所は唯彼れに対して先鞭を着るに在るのみ。実に日本国の一大快事なれども、唯こゝに遺憾なるはその学者をして一意専心ならしむるの手段に就て意の如くならざるもの多きの一事なり。如何なる学者にてもその身匏瓜にあらざれば衣食の計なきを得ず。然るに生計は人生に最も煩わしくして、学者の思想を妨ること之より甚だしきものあるべからず。独坐沈思、宇宙無辺の大より物質微塵の細に至るまで、その理を案じその働を察し、乍ち得たるが如くにして又乍ち失い、恍として身躬からその身の在る処を忘れ、一心不乱、耳目鼻口の官能も殆んど中止の姿を呈したるその最中に、突然家計塩噌の急に促され、金銭受授の俗談に叫ばるゝが如きありては、思想の連鎖一時に断絶して又旧に復するを得ず。

新字:この時に当り一意専心、物理を探究して、造化の秘密を開くは人間無上の快楽にして、王公の富貴栄華も羨むに足らず。之を眼下に見てその生活の卑俗なるを憐むと同時に、自家の空想を逞うし、例えば動植物生々の理、地球の組織又その天体との関係、化学の働は果して何れの辺にまで達すべきや、宇宙勢力の原則は果して既に定まりたるや否や、など仔細に之を思えば千百の疑問際限あるべからず。満目恰も造化の秘密に囲まれて唯人智の浅弱を嘆ずるのみなれども、いよ/\進んでいよ/\深きに達し、曽て底止する所を知らざるも亦是れ人生の約束なれば、勇を鼓して知見の区域を拡め、恰も化翁と境を争うは是れぞ学者の本領なりと深く信じて之を疑わず、殊に我日本国人の性質を見るに、西洋文明の新事を知りしは輓近のことなれども、知識の教育練磨は千百年来生々の遺伝に存して、新事の理を解するに苦しまざるのみか、起首原造の天資に乏しからずして、洋学開始以来単に西洋を学ぶの時代は既に経過し、今は学問場裡に彼我併立の勢を成して、今後我学者の勉る所は唯彼れに対して先鞭を着るに在るのみ。実に日本国の一大快事なれども、唯こゝに遺憾なるはその学者をして一意専心ならしむるの手段に就て意の如くならざるもの多きの一事なり。如何なる学者にてもその身匏瓜にあらざれば衣食の計なきを得ず。然るに生計は人生に最も煩わしくして、学者の思想を妨ること之より甚だしきものあるべからず。独坐沈思、宇宙無辺の大より物質微塵の細に至るまで、その理を案じその働を察し、乍ち得たるが如くにして又乍ち失い、恍として身躬からその身の在る処を忘れ、一心不乱、耳目鼻口の官能も殆んど中止の姿を呈したるその最中に、突然家計塩噌の急に促され、金銭受授の俗談に叫ばるゝが如きありては、思想の連鎖一時に断絶して又旧に復するを得ず。

書き下し

この時に当り一意専心、物理を探究して、造化の秘密を開くは人間無上の快楽にして、王公の富貴栄華も羨むに足らず。之を眼下に見てその生活の卑俗なるを憐むと同時に、自家の空想を逞うし、例えば動植物生々の理、地球の組織又その天体との関係、化学の働は果して何れの辺にまで達すべきや、宇宙勢力の原則は果して既に定まりたるや否や、など仔細に之を思えば千百の疑問際限あるべからず。満目恰も造化の秘密に囲まれて唯人智の浅弱を嘆ずるのみなれども、いよ/\進んでいよ/\深きに達し、曽て底止する所を知らざるも亦是れ人生の約束なれば、勇を鼓して知見の区域を拡め、恰も化翁と境を争うは是れぞ学者の本領なりと深く信じて之を疑わず、殊に我日本国人の性質を見るに、西洋文明の新事を知りしは輓近のことなれども、知識の教育練磨は千百年来生々の遺伝に存して、新事の理を解するに苦しまざるのみか、起首原造の天資に乏しからずして、洋学開始以来単に西洋を学ぶの時代は既に経過し、今は学問場裡に彼我併立の勢を成して、今後我学者の勉る所は唯彼れに対して先鞭を着るに在るのみ。実に日本国の一大快事なれども、唯こゝに遺憾なるはその学者をして一意専心ならしむるの手段に就て意の如くならざるもの多きの一事なり。如何なる学者にてもその身匏瓜にあらざれば衣食の計なきを得ず。然るに生計は人生に最も煩わしくして、学者の思想を妨ること之より甚だしきものあるべからず。独坐沈思、宇宙無辺の大より物質微塵の細に至るまで、その理を案じその働を察し、乍ち得たるが如くにして又乍ち失い、恍として身躬からその身の在る処を忘れ、一心不乱、耳目鼻口の官能も殆んど中止の姿を呈したるその最中に、突然家計塩噌の急に促され、金銭受授の俗談に叫ばるゝが如きありては、思想の連鎖一時に断絶して又旧に復するを得ず。

現代語訳

この時にあたり、一心に物理を探究して、造化の秘密を開くことは、人間にとって無上の快楽であり、王侯の富貴や栄華も羨むに足りません。これを眼下に見て、その生活の卑俗さを憐れむと同時に、自分の空想をほしいままにして、たとえば動植物の生々の理、地球の組織やその天体との関係、化学の働きはどこまで達するのか、宇宙の勢力の原則はすでに定まっているのか否か、などと細かく考えれば、千百の疑問が際限なく湧いてきます。見渡すかぎり、あたかも造化の秘密に囲まれて、ただ人智の浅く弱いことを嘆くばかりですが、いよいよ進んでいよいよ深みに達し、これまで底や終わりを知らないというのも、人生の約束ですから、勇を奮って知見の領域を広げ、あたかも造物主と境を争うことこそ、学者の本領であると深く信じて疑いません。特にわが日本国人の性質を見ると、西洋文明の新しい事柄を知ったのは近ごろのことですが、知識の教育と練磨は、千百年来の連綿とした遺伝にあって、新しい事柄の理を理解するのに苦しまないばかりか、最初に創り出す天賦の才にも乏しくなく、洋学開始以来、単に西洋を学ぶだけの時代は既に過ぎ、今は学問の場で彼我が並び立つ勢いとなり、今後わが学者が努めるところは、ただ彼に対して先んじることにあるだけです。実に日本国の一大快事ですが、ただここに残念なのは、その学者を一心に専念させる手段について、思い通りにならないことが多い、という一事です。どのような学者でも、その身がひょうたんでない限り、衣食の算段がなくてはなりません。ところが生計は、人生で最も煩わしいもので、学者の思想を妨げることで、これより甚だしいものはありません。独り座って深く思索し、宇宙の果てしない大きさから物質の微細な塵に至るまで、その理を考えその働きを察し、たちまち得たようでまたたちまち失い、恍惚として自分の身がどこにあるかさえ忘れ、一心不乱、耳目鼻口の感覚もほとんど停止したその最中に、突然、家計や塩・味噌の急な用事に促され、金銭の受け渡しという俗な話に叫ばれることがあれば、思想の連なりは一時に断ち切られて、元に戻ることができません。

解説

福沢は、物理探究を王侯の富貴にも勝る快楽としつつ、学者が衣食の心配に思索を断たれる痛みを訴えます。深い集中の最中に家計の用事で呼び戻される、という描写は、現代の職場で集中が中断される経験とよく重なります。日本人は西洋の学問を学ぶ段階を過ぎ、先んじる段階にあるという見立ては、当時の啓蒙家としての自負を示します。学者の生計の問題を、学問のためだけでなく国の利益と結びつける視点は、研究環境をどう整えるかという現代の課題にも通じます。

この章句が説くこと

物理探究無上の快楽造化と境を争う学者生計思索の断絶

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