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荀子 / 非十二子篇

士君子之所能不能為:君子能為可貴,而不能使人必貴己;能為可信,而不能使人必信己;能為可用,而不能使人必用己。故君子恥不修,不恥見汙;恥不信,不恥不見信;恥不能,不恥不見用。是以不誘於譽,不恐於誹,率道而行,端然正己,不為物傾側:夫是之謂誠君子。《詩》云:「溫溫恭人,維德之基。」此之謂也。

新字:士君子之所能不能為:君子能為可貴,而不能使人必貴己;能為可信,而不能使人必信己;能為可用,而不能使人必用己。故君子恥不修,不恥見汙;恥不信,不恥不見信;恥不能,不恥不見用。是以不誘於誉,不恐於誹,率道而行,端然正己,不為物傾側:夫是之謂誠君子。《詩》云:「温温恭人,維徳之基。」此之謂也。

書き下し

士君子の能く為す所と能く為さざる所とあり。君子は貴ばるべきを為すこと能うも、人をして必ず己を貴ばしむること能わず。信ぜらるべきを為すこと能うも、人をして必ず己を信ぜしむること能わず。用いらるべきを為すこと能うも、人をして必ず己を用いしむること能わず。故に君子は脩めざるを恥じて、汙(けが)さるるを恥じず。信ならざるを恥じて、信ぜられざるを恥じず。能わざるを恥じて、用いられざるを恥じず。是を以て譽(ほまれ)に誘われず、誹(そし)りに恐れず、道に率(したが)いて行い、端然として己を正し、物の為に傾側せず。夫れ是を之(こ)れ誠の君子と謂う。詩に云う、「溫溫たる恭人は、維(こ)れ德の基(もとい)なり」と。此れ之の謂いなり。

現代語訳

士君子には、自分にできることとできないことがある。君子は、尊ばれるにふさわしい人間になることはできるが、人に必ず自分を尊ばせることはできない。信じられるにふさわしい人間になることはできるが、人に必ず自分を信じさせることはできない。用いられるにふさわしい人間になることはできるが、人に必ず自分を用いさせることはできない。だから君子は、身を修めていないことを恥じるのであって、人から汚名を着せられることを恥じはしない。誠実でないことを恥じるのであって、人に信じてもらえないことを恥じはしない。能力がないことを恥じるのであって、人に用いてもらえないことを恥じはしない。こうして、誉められても浮かれず、そしられても怯えず、道に従って行い、まっすぐに自分を正し、外のものごとに揺さぶられない。これを本当の君子というのである。詩経に「穏やかで恭しい人こそ、徳の土台である」とあるのは、このことを言うのである。

解説

非十二子篇の白眉ともいえる一段です。荀子はここで、自分の力が及ぶ範囲と及ばない範囲をきっぱり分けます。尊ばれるにふさわしい人になることはできる。だが、人に尊ばせることはできない。信じられるに値する人になることはできる。だが、人に信じさせることはできない。用いられるに値する力を持つことはできる。だが、人に用いさせることはできない。評価は他人の側にあり、自分の側にあるのは、ただ自分を磨くことだけだ、という切り分けです。だから君子は「修めていない自分」を恥じるのであって、「認められない現実」を恥じません。この一線が引けると、誉められて浮つくことも、そしられて怯えることもなくなります。評価や反応に一喜一憂して疲れてしまう現代人にとって、これほど効く処方箋もありません。自分が握れるのは準備と修養だけ。そこに力を注ぎ、結果は静かに待つ。それが誠の君子です。

この一句を、あなたの毎日に。

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