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福沢諭吉小品集 / 学問の独立・第26段

また、一方の学者においても、世間の風潮、政談の一方に向うて、いやしくも政を語る者は他の尊敬を蒙り、またしたがって衣食の道にも近くして、身を起すに容易なるその最中に、自家の学問社会をかえりみれば、生計得べきの路なきのみならず、蛍雪幾年の辛苦を忍耐するも、学者なりとして敬愛する人さえなき有様なれば、むしろ書を抛て一臂を政治上に振うに若かずとて、壮年後進の学生は争うて政治社会に入らざるはなし。その人の罪に非ず。風潮の然らしむるところなり。 今の風潮は、天下の学生を駆りてこれを政治に入らしむるものなるを、世の論者は、往々その原因を求めずして、ただ現在の事相に驚き、今の少年は不遜なり軽躁なり、漫に政治を談じて身の程を知らざる者なりとて、これを咎る者あれども、かりにその所言にしたがいてこれを酔狂人とするも、明治年間今日にいたりてにわかに狂すべきに非ず。その狂や必ず原因あるべし。その原因とは何ぞや。学生にして学問社会に身を寄すべきの地位なきもの、すなわちこれなり。その実例はこれを他に求むるを須たず、あるいは論者の中にもその身を寄する地位を失わざらんがために説を左し、また、その地位を得たるがために主義を右したることもあらん。これを得て右したる者は、これを失えば、また左すべし。何ぞ現在の左右を論ずるに足らんや。自身にしてかくの如し。他人もまたかくの如くなるべし。伐柯其則不遠、自心をもって他人を忖度すべし。 人の心を鎮撫するの要は、その身を安からしむるにあり。安身は安心の術なり。ゆえに今、帝室の保護をもって、私学校を維持せしめてかねてまた学者を優待するの先例を示されたらば、世間にも次第に学問を貴ぶの風を成して、自然に学者安身の地位も生ずべきがゆえに、専業の工たり農商たり、また政治家たる者の外は、学問社会をもって畢生安心の地と覚悟して、政壇の波瀾に動揺することなきを得べし。我が輩かつていえることあり、方今政談の喋々をただちに制止せんとするは、些少の水をもって火に灌ぐが如し、大火消防の法は、水を灌ぐよりも、その燃焼の材料を除くに若かずと。けだし学者のために安身の地をつくりてその政談に走るをとどむるは、また燃料を除くの一法なり。

書き下し

また、一方の学者においても、世間の風潮、政談の一方に向うて、いやしくも政を語る者は他の尊敬を蒙り、またしたがって衣食の道にも近くして、身を起すに容易なるその最中に、自家の学問社会をかえりみれば、生計得べきの路なきのみならず、蛍雪幾年の辛苦を忍耐するも、学者なりとして敬愛する人さえなき有様なれば、むしろ書を抛て一臂を政治上に振うに若かずとて、壮年後進の学生は争うて政治社会に入らざるはなし。その人の罪に非ず。風潮の然らしむるところなり。 今の風潮は、天下の学生を駆りてこれを政治に入らしむるものなるを、世の論者は、往々その原因を求めずして、ただ現在の事相に驚き、今の少年は不遜なり軽躁なり、漫に政治を談じて身の程を知らざる者なりとて、これを咎る者あれども、かりにその所言にしたがいてこれを酔狂人とするも、明治年間今日にいたりてにわかに狂すべきに非ず。その狂や必ず原因あるべし。その原因とは何ぞや。学生にして学問社会に身を寄すべきの地位なきもの、すなわちこれなり。その実例はこれを他に求むるを須たず、あるいは論者の中にもその身を寄する地位を失わざらんがために説を左し、また、その地位を得たるがために主義を右したることもあらん。これを得て右したる者は、これを失えば、また左すべし。何ぞ現在の左右を論ずるに足らんや。自身にしてかくの如し。他人もまたかくの如くなるべし。伐柯其則不遠、自心をもって他人を忖度すべし。 人の心を鎮撫するの要は、その身を安からしむるにあり。安身は安心の術なり。ゆえに今、帝室の保護をもって、私学校を維持せしめてかねてまた学者を優待するの先例を示されたらば、世間にも次第に学問を貴ぶの風を成して、自然に学者安身の地位も生ずべきがゆえに、専業の工たり農商たり、また政治家たる者の外は、学問社会をもって畢生安心の地と覚悟して、政壇の波瀾に動揺することなきを得べし。我が輩かつていえることあり、方今政談の喋々をただちに制止せんとするは、些少の水をもって火に灌ぐが如し、大火消防の法は、水を灌ぐよりも、その燃焼の材料を除くに若かずと。けだし学者のために安身の地をつくりてその政談に走るをとどむるは、また燃料を除くの一法なり。

現代語訳

また一方の学者においても、世間の風潮が政談の一方に向かい、少しでも政治を語る者は他から尊敬を受け、それにつれて衣食の道にも近く、身を立てやすい最中に、自分の学問社会を顧みれば、生計の得られる道がないばかりか、蛍雪の功で何年も辛苦を耐え忍んでも、学者だとして敬愛する人さえいない有様なので、いっそ書物を捨てて政治の世界で腕を振るうほうがましだと、若い後進の学生は争って政治社会に入らない者はいません。それはその人の罪ではありません。風潮がそうさせるのです。 今の風潮は、天下の学生を駆り立てて政治に入らせているのに、世の論者は、しばしばその原因を求めず、ただ目の前の現象に驚いて、今の少年は不遜だ、軽率だ、むやみに政治を論じて身の程を知らない者だと言ってこれを咎めます。しかし、かりにその言うとおりに彼らを酔狂人としても、明治の今日になって急に狂うはずはありません。その狂いには必ず原因があるはずです。その原因とは何でしょうか。学生で、学問社会に身を寄せられる地位がない者、それがすなわち原因です。その実例は他に求める必要もなく、論者の中にも、その身を寄せる地位を失わないために説を左に傾け、またその地位を得たために主義を右に変えた人もいるでしょう。地位を得て右に変えた者は、それを失えばまた左に変わるでしょう。現在の左右を論じるに足りません。自分自身がそうなのですから、他人もまたそうでしょう。「柯を伐る、柯を伐る、その則遠からず」と言うとおり、自分の心をもって他人を推し量るべきです。 人の心を鎮めるための肝要は、その身を安らかにすることにあります。身の安定は心の安定の術です。ですから今、帝室の保護によって私学校を維持させ、あわせて学者を優遇する先例を示されたなら、世間にも次第に学問を貴ぶ風が生まれて、自然に学者が身を安んじる地位もできるでしょう。そうなれば、専業の職人・農・商や政治家になる者のほかは、学問社会を生涯安心の地と覚悟して、政壇の波乱に動揺しないで済むでしょう。私はかつて、今の政談の喋々をただちに制止しようとするのは、わずかな水で火に注ぐようなもので、大火を消す方法は、水を注ぐよりも燃える材料を除くのがよいと言ったことがあります。思うに、学者のために身を安んじる地を作って政談に走るのを止めるのも、燃料を除く一つの方法です。

解説

若者が学問を捨てて政治に走るのは、不遜だからではなく、学問の世界に身を置く場所がないからだ、と福沢は見ます。行動を責める前に、その行動を生む構造を見よという視点です。「安身は安心の術」という言葉が核心で、身の置きどころの安定が心の安定を生むという主張です。現代の職場でも、早期に離職したり、目立つ分野に流れたりする人を個人の資質の問題にしがちです。評価や居場所の設計がそうさせていないか、構造から見直す手がかりになります。

この章句が説くこと

安身安心風潮政談学生燃料を除く原因

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