福沢諭吉小品集 / 中津留別の書・第2段
古今、支那・日本の風俗を見るに、一男子にて数多の婦人を妻妾にし、婦人を取扱うこと下婢の如く、また罪人の如くして、かつてこれを恥ずる色なし。浅ましきことならずや。一家の主人、その妻を軽蔑すれば、その子これに傚て母を侮り、その教を重んぜず。母の教を重んぜざれば、母はあれどもなきが如し。孤子に異ならざるなり。いわんや男子は外を勤て家におること稀なれば、誰かその子を教育する者あらん。哀というも、なおあまりあり。 『論語』に「夫婦別あり」と記せり。別ありとは、分けへだてありということにはあるまじ。夫婦の間は情こそあるべきなり。他人らしく分け隔ありては、とても家は治り難し。されば別とは区別の義にて、この男女はこの夫婦、かの男女はかの夫婦と、二人ずつ区別正しく定るという義なるべし。然るに今、多勢の妾を養い、本妻にも子あり、妾にも子あるときは、兄弟同士、父は一人にて母は異なり。夫婦に区別ありとはいわれまじ。男子に二女を娶るの権あらば、婦人にも二夫を私するの理なかるべからず。試に問う、天下の男子、その妻君が別に一夫を愛し、一婦二夫、家におることあらば、主人よくこれを甘んじてその婦人に事るか。また『左伝』にその室を易うということあり。これは暫時細君を交易することなり。 孔子様は世の風俗の衰うるを患て『春秋』を著し、夷狄だの中華だのと、やかましく人をほめたり、そしりたりせられしなれども、細君の交易はさまで心配にもならざりしや、そしらぬ顔にてこれをとがめず。我々どもの考にはちと不行届のように思わるるなり。あるいはまた、『論語』の「夫婦別あり」も、ほかに解しようのある文句か。漢儒先生たちの説もあるべし。 親に孝行は当然のことなり。ただ一心に我が親と思い、余念なく孝行をつくすべし。三年父母の懐をまぬかれず、ゆえに三年の喪をつとむるなどは、勘定ずくの差引にて、あまり薄情にはあらずや。
書き下し
古今、支那・日本の風俗を見るに、一男子にて数多の婦人を妻妾にし、婦人を取扱うこと下婢の如く、また罪人の如くして、かつてこれを恥ずる色なし。浅ましきことならずや。一家の主人、その妻を軽蔑すれば、その子これに傚て母を侮り、その教を重んぜず。母の教を重んぜざれば、母はあれどもなきが如し。孤子に異ならざるなり。いわんや男子は外を勤て家におること稀なれば、誰かその子を教育する者あらん。哀というも、なおあまりあり。 『論語』に「夫婦別あり」と記せり。別ありとは、分けへだてありということにはあるまじ。夫婦の間は情こそあるべきなり。他人らしく分け隔ありては、とても家は治り難し。されば別とは区別の義にて、この男女はこの夫婦、かの男女はかの夫婦と、二人ずつ区別正しく定るという義なるべし。然るに今、多勢の妾を養い、本妻にも子あり、妾にも子あるときは、兄弟同士、父は一人にて母は異なり。夫婦に区別ありとはいわれまじ。男子に二女を娶るの権あらば、婦人にも二夫を私するの理なかるべからず。試に問う、天下の男子、その妻君が別に一夫を愛し、一婦二夫、家におることあらば、主人よくこれを甘んじてその婦人に事るか。また『左伝』にその室を易うということあり。これは暫時細君を交易することなり。 孔子様は世の風俗の衰うるを患て『春秋』を著し、夷狄だの中華だのと、やかましく人をほめたり、そしりたりせられしなれども、細君の交易はさまで心配にもならざりしや、そしらぬ顔にてこれをとがめず。我々どもの考にはちと不行届のように思わるるなり。あるいはまた、『論語』の「夫婦別あり」も、ほかに解しようのある文句か。漢儒先生たちの説もあるべし。 親に孝行は当然のことなり。ただ一心に我が親と思い、余念なく孝行をつくすべし。三年父母の懐をまぬかれず、ゆえに三年の喪をつとむるなどは、勘定ずくの差引にて、あまり薄情にはあらずや。
現代語訳
昔から今まで、中国や日本の風俗を見ると、一人の男が多くの女性を妻や妾とし、女性を召使いのように、また罪人のように扱って、少しも恥じる様子がありません。あさましいことではありませんか。一家の主人が妻を軽んじれば、その子もこれにならって母を侮り、その教えを重んじません。母の教えを重んじなければ、母はいても、いないのと同じです。孤児と変わりません。まして男は外で働いて家にいることが少ないので、誰がその子を教育するというのでしょう。悲しいと言っても、なお足りません。 『論語』には「夫婦別あり」と記されています。別があるというのは、分け隔てがあるということではないでしょう。夫婦の間には情があるべきです。他人のように分け隔てがあっては、とても家は治まりにくいものです。ですから別とは区別の意味で、この男女はこの夫婦、あの男女はあの夫婦と、二人ずつきちんと区別して定まることを言うのでしょう。ところが今、多くの妾を養い、本妻にも子があり、妾にも子があるなら、兄弟同士で、父は一人でも母は異なります。夫婦に区別があるとは言えないでしょう。男が二人の女を娶る権利があるなら、女にも二人の夫を持つ道理がなければなりません。試しに問います。世の男たちは、その妻が別に一人の夫を愛し、一人の妻に二人の夫が家にいるようなことがあったら、主人は平気でその女性に仕えるでしょうか。また『左伝』には、その室を易えるという記述があります。これは一時的に妻を交換することです。 孔子様は世の風俗の衰えを憂えて『春秋』を著し、夷狄だの中華だのと、やかましく人をほめたり非難したりなさいましたが、妻の交換はそれほど心配にならなかったのか、知らん顔でとがめていません。私たちの考えでは、少し行き届かないように思われます。あるいはまた、『論語』の「夫婦別あり」も、ほかに解釈のしようがある文句なのでしょうか。漢の儒学者たちの説もあるのでしょう。 親に孝行するのは当然のことです。ただ一心に自分の親と思い、他念なく孝行を尽くすべきです。三年は父母の懐を離れられないから三年の喪に服するなどというのは、損得勘定の差し引きで、あまりに薄情ではないでしょうか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之六夫婦の別は、先儒以て智に属すと為す。蓋し閨門の中、匹配の際、至りて親近なれば、動もすれば褻狎に至り易し。褻狎なれば則ち迷溺し易く、混乱して別無し。且つ婦人の情性は男子と異なり、昏愚忿嫉にして暁り難し。男子苟し之を知らざれば、則ち忿恚交々発して、反目に至る。是れ家の正しからざる所以なり。女は位を内に正し、男は位を外に正して、家道正しき者は、乃ち別有ればなり。蓋し分別は知の理なり。内外を分ち、各々其の位を正して、褻狎迷溺に至らず、且つ能く婦人の性情を知りて、制御宜しきを得るなり。知の明白なるに非ざれば、則ち能はず。是れ夫婦の別有る者の、知に属する所以なり。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第11段男女にして一度びこれを犯すときは、既に夫婦の大倫を破り、恕の道を忘れて情を痛ましめたるものにして、敬愛の誠はこの時限りに断絶せざるを得ず。仮令えあるいは種々様々の事情によりて外面の美を装うことなきにあらずといえども、一点の瑕瑾、以て全璧の光を害して家内の明を失い、禍根一度び生じて、発しては親子の不和となり、変じては兄弟姉妹の争いとなり、なお天下後世を謀れば、一家の不徳は子々孫々と共に繁殖して、遂に社会公徳の根本を薄弱ならしむるに至るべし。故に云く、多妻多男の法は今世を挙げて今人の玩弄物に供するの覚悟なれば可なりといえども、天下を万々歳の天下として今人をして後世に責任あらしめんとするときは、我輩は一時の要用便利を以て天下後世の大事に易うること能わざる者なり。
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『学問のすゝめ』八編・わが心をもって他人の身を制すべからず・これを男妾と名づけて人あるいはいわく、「衆妾を養うもその処置よろしきを得れば人情を害することなし」と。こは夫子みずから言うの言葉なり。もしそれはたして然らば、一婦をして衆夫を養わしめ、これを男妾と名づけて家族第二等親の位にあらしめなば如何。かくのごとくしてよくその家を治め、人間交際の大義に毫も害することなくば、余が喋々の議論をもやめ、口を閉ざしてまた言わざるべし。天下の男子よろしくみずから顧みるべし。或る人またいわく、「妾を養うは後あらしめんがためなり、孟子の教えに不孝に三つあり、後なきを大なりとす」と。余答えていわく、天理に戻ることを唱うる者は孟子にても孔子にても遠慮に及ばず、これを罪人と言いて可なり。妻を娶り、子を生まざればとてこれを大不孝とは何事ぞ。遁辞と言うもあまりはなはだしからずや。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第12段男女両性の関係は至大至重のものにして、夫婦同室の約束を結ぶときは、これを人の大倫と称し、社会百福の基、また百不幸の源たるの理由は、前に陳べたる所を以て既に明白なりとして、さて古今世界の実際において、両性のいずれかこの関係を等閑にして大倫を破るもの多きやと尋ぬれば、常に男性にありと答えざるを得ず。西洋文明の諸国においても皆然らざるはなきその中についても、日本の如きは最も甚だしきものにして、古来の習俗、一男多妻を禁ぜざるの事実を見ても、大概を窺い見るべし。西洋文明国の男女は果たして潔清なりやというに、決して然らず、極端について見れば不潔の甚だしきもの多しといえども、その不潔を不潔としてこれを悪み賤しむの情は日本人よりも甚だしくして、輿論の厳重なることはとても日本国の比にあらず。故に、かの国々の男子が不品行を犯すは、初めよりその不品行なるを知り、あたかも輿論に敵して窃かにこれを犯すことなれば、その事はすべて人間の大秘密に属して、言う者もなく聞く者もなく、事実の有無にかかわらず外面の美風だけはこれを維持してなお未だ破壊に至らずといえども、不幸なるは我が日本国の旧習俗にして、事の起源は今日、得て詳らかにするに由なしといえども、古来家の血統を重んずるの国風にして、嗣子なく家名の断絶する法律さえ行われたるほどの次第にて、頻りに子を生むの要用を感じ、その目的を達するには多妻法より便利なるものなきが故に、ここにおいてか妾を畜うの風を成したるものの如し。天理の議論などはともかくも、家名を重んずるの習俗に制せられて、止むを得ず妾を畜うの場合に至りしは無理もなきことにして、またこれ一国の一主義として恕すべきに似たれども、天下後世これより生ずる所の弊害は、実に筆紙にも尽し難きものあり。
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『初学訓』巻之二一君臣父子は大倫なり。故に、忠孝の二は、殊に、力を尽すべし。よろづのこと、学ばざれば、誠の志ありても、其道を知らざれば、忠が不忠になり、孝も不孝になる。故に、殊更、忠孝の道をよく学び、其法を知りて行ふべし。古人も、学問は、忠と孝とを行ふ所なりといへり。万善ありといへども、忠孝の道うすくば、君子とすべからず。一夫婦は、別を道とす。別とは、内外貴賤のわかちありて、混乱せざるなり。夫婦は、子孫の相つづく故にして、人倫のはじめなり。夫は外ををさめ、婦は内ををさむ。夫は、婦に礼義正しく、婦は、夫に和順なるべし。然るに、馴れ親しきにまかせて、敬と和とを失へば、其道たたず。婦人は、多くは愚なり。道にたがはば、教へ正すべし、怒るべからず。怒れば和を失ふ。
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『論語と算盤』教育と情誼・偉人と其の母婦人に対する態度を耶蘇教的に論じて云々することはしばらく別とするも、人間の真正なる道義心に訴えて、女子を道具視してよいものであろうか。人類社会において男子が重んずべきものとすれば、女子もやはり社会を組織する上にその一半を負うて立つ者だから、男子同様重んずべき者ではなかろうか。既に支那の先哲も「男女室に居るは大倫なり」と言うてある。
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