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福翁自伝 / 老余の半生・行路変化多し(1)

回顧すれば六十何年、人生既往を想えば恍として夢の如しとは毎度聞く所であるが、私の夢は至極変化の多い賑かな夢でした。旧小藩の小士族、窮屈な小さい箱の中に詰込まれて、藩政の楊枝を以て重箱の隅をほじくるその楊枝の先きに掛た少年が、ヒョイと外に飛出して故郷を見捨るのみか、生来教育された漢学流の教をも打遣て西洋学の門に入り、以前に変た書を読み、以前に変った人に交わり、自由自在に運動して、二度も三度も外国に往来すれば考は段々広くなって、旧藩は扨置き日本が挟く見えるようになって来たのは、何と賑かな事で大きな変化ではあるまいか。或はその間に艱難辛苦など述立てれば大造のようだが、咽元通れば熱さ忘れると云うその通りで、艱難辛苦も過ぎて仕舞えば何ともない。貧乏は苦しいに違いないが、その貧乏が過ぎ去た後で昔の貧苦を思出して何が苦しいか、却て面白いくらいだから、私は洋学を修めて、その後ドウやら斯うやら人に不義理をせず頭を下げぬようにして、衣食さえ出来れば大願成就と思て居た処に、又図らずも王政維新、いよ/\日本国を開て本当の開国となったのは難有い。幕府時代に私の著わした西洋事情なんぞ、出版の時の考には、天下にコンなものを読む人が有るか無いか夫れも分らず、仮令い読んだからとて之を日本の実際に試みるなんて固より思いも寄らぬことで、一口に申せば西洋の小説、夢物語の戯作くらいに自から認めて居たものが、世間に流行して実際の役に立つのみか、新政府の勇気は西洋事情の類でない、一段も二段も先きに進んで思切た事を断行して、アベコベに著述者を驚かす程のことも折々見えるから、ソコで私も亦以前の大願成就に安んじて居られない。

書き下し

回顧すれば六十何年、人生既往を想えば恍として夢の如しとは毎度聞く所であるが、私の夢は至極変化の多い賑かな夢でした。旧小藩の小士族、窮屈な小さい箱の中に詰込まれて、藩政の楊枝を以て重箱の隅をほじくるその楊枝の先きに掛た少年が、ヒョイと外に飛出して故郷を見捨るのみか、生来教育された漢学流の教をも打遣て西洋学の門に入り、以前に変た書を読み、以前に変った人に交わり、自由自在に運動して、二度も三度も外国に往来すれば考は段々広くなって、旧藩は扨置き日本が挟く見えるようになって来たのは、何と賑かな事で大きな変化ではあるまいか。或はその間に艱難辛苦など述立てれば大造のようだが、咽元通れば熱さ忘れると云うその通りで、艱難辛苦も過ぎて仕舞えば何ともない。貧乏は苦しいに違いないが、その貧乏が過ぎ去た後で昔の貧苦を思出して何が苦しいか、却て面白いくらいだから、私は洋学を修めて、その後ドウやら斯うやら人に不義理をせず頭を下げぬようにして、衣食さえ出来れば大願成就と思て居た処に、又図らずも王政維新、いよ/\日本国を開て本当の開国となったのは難有い。幕府時代に私の著わした西洋事情なんぞ、出版の時の考には、天下にコンなものを読む人が有るか無いか夫れも分らず、仮令い読んだからとて之を日本の実際に試みるなんて固より思いも寄らぬことで、一口に申せば西洋の小説、夢物語の戯作くらいに自から認めて居たものが、世間に流行して実際の役に立つのみか、新政府の勇気は西洋事情の類でない、一段も二段も先きに進んで思切た事を断行して、アベコベに著述者を驚かす程のことも折々見えるから、ソコで私も亦以前の大願成就に安んじて居られない。

現代語訳

振り返れば六十何年、人生の過去を想えばぼんやりと夢のようだとはたびたび聞くところですが、私の夢は至って変化の多い賑やかな夢でした。旧小藩の小士族、窮屈な小さい箱の中に詰め込まれ、藩政の楊枝で重箱の隅をほじくる、その楊枝の先にかかった少年が、ひょいと外に飛び出して故郷を見捨てるばかりか、生まれつき教育された漢学流の教えをも捨てて西洋学の門に入り、以前とは変わった書を読み、以前とは変わった人と交わり、自由自在に動き回って、二度も三度も外国に行き来すれば、考えは段々広くなって、旧藩はさておき、日本が狭く見えるようになってきたのは、何と賑やかなこと、大きな変化ではないでしょうか。あるいはその間の艱難辛苦などを述べ立てれば大層なようですが、喉元過ぎれば熱さを忘れるというとおりで、艱難辛苦も過ぎてしまえば何ともありません。貧乏は苦しいに違いありませんが、その貧乏が過ぎ去った後で昔の貧苦を思い出して何が苦しいか、かえって面白いくらいです。 だから私は、洋学を修めて、その後どうにかこうにか人に不義理をせず頭を下げないようにして、衣食さえできれば大願成就と思っていたところに、また図らずも王政維新があり、いよいよ日本国を開いて本当の開国となったのは、ありがたいことです。幕府時代に私が著した西洋事情なども、出版の時の考えでは、天下にこんなものを読む人があるかないかそれも分からず、たとえ読んだからといってこれを日本の実際に試みるなど、もとより思いも寄らないことで、一口に言えば、西洋の小説、夢物語の戯作くらいに自分では考えていたものが、世間に流行して実際の役に立つばかりか、新政府の勇気は西洋事情の類ではなく、一段も二段も先に進んで思い切ったことを断行して、あべこべに著述者を驚かせるほどのことも折々見えるので、そこで私もまた、以前の大願成就に安んじてはいられなくなりました。

解説

六十余年を、変化の多い賑やかな夢だったと総括する場面です。小藩の下級武士の子が、藩政の楊枝で重箱の隅をほじくるような窮屈な箱から飛び出す比喩が鮮やかです。漢学から洋学へ、外国を往復して日本が狭く見えるようになった。苦労は過ぎれば面白いとも言います。さらに、幕府時代に戯作のつもりで書いた西洋事情が実際の役に立ち、新政府が自分の想像を超えて進んだことで、福沢は満足に安んじられなくなります。目標が叶うと次の目標が見える、という成長の感覚が表れています。

この章句が説くこと

艱難辛苦洋学西洋事情大願成就開国変化

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