福翁自伝 / 老余の半生・明治十四年の政変(2)
凡そ当時の政変は政府人の発狂とでも云うような有様で、私はその後岩倉から度々呼びに来て、ソッと裏の茶室のような処で面会、主人公は何かエライ心配な様子で、この度の一件は政府中、実に容易ならぬ動揺である、西南戦争の時にも随分苦労したが、今度の始末はソレよりも六かしいなんかんと話すのを聞けば、余程騒いだものと察しられる。実に馬鹿気たことで、政府は明治二十三年、国会開設と国民に約束して、十年後には饗応すると云て案内状を出したようなものだ、所がその十年の間に客人の気に入らぬ事ばかり仕向けて、人を捕えて牢に入れたり東京の外に逐出したり、マダ夫れでも足らずに、役人達はむかしの大名公卿の真似をして華族になって、是れ見よがしに殻威張を遣て居るから、天下の人はます/\腹を立てゝ暴れ廻わる。何の事はない饗応の主人と客とマダ顔も合わせぬ先きに角突合いになって居るから可笑しい。十四年の真面目の事実は、私が詳に記して家に蔵めてあるけれども、今更ら人の忌がる事を公けにするでもなし黙て居ますが、そのとき私は寺島と極懇意だから何も蚊も話して聞かせて、「ドウダイ僕が今、口まめに饒舌って廻ると政府の中に随分困る奴が出来るがと云うと、寺島も始めて聞て驚き、「成程そうだ、政治上の魂胆は随分穢いものとは云いながら、是れはアンマリ酷い。少し捩くって遣ても宜いじゃないかと、態と勧めるような風であったけれども、私は夫れ程に思わぬ、「御同前に年はモウ四十以上ではないか、先ず/\ソンナ無益な殺生は罷にしようと云て、笑て分れたことがある。
書き下し
凡そ当時の政変は政府人の発狂とでも云うような有様で、私はその後岩倉から度々呼びに来て、ソッと裏の茶室のような処で面会、主人公は何かエライ心配な様子で、この度の一件は政府中、実に容易ならぬ動揺である、西南戦争の時にも随分苦労したが、今度の始末はソレよりも六かしいなんかんと話すのを聞けば、余程騒いだものと察しられる。実に馬鹿気たことで、政府は明治二十三年、国会開設と国民に約束して、十年後には饗応すると云て案内状を出したようなものだ、所がその十年の間に客人の気に入らぬ事ばかり仕向けて、人を捕えて牢に入れたり東京の外に逐出したり、マダ夫れでも足らずに、役人達はむかしの大名公卿の真似をして華族になって、是れ見よがしに殻威張を遣て居るから、天下の人はます/\腹を立てゝ暴れ廻わる。何の事はない饗応の主人と客とマダ顔も合わせぬ先きに角突合いになって居るから可笑しい。十四年の真面目の事実は、私が詳に記して家に蔵めてあるけれども、今更ら人の忌がる事を公けにするでもなし黙て居ますが、そのとき私は寺島と極懇意だから何も蚊も話して聞かせて、「ドウダイ僕が今、口まめに饒舌って廻ると政府の中に随分困る奴が出来るがと云うと、寺島も始めて聞て驚き、「成程そうだ、政治上の魂胆は随分穢いものとは云いながら、是れはアンマリ酷い。少し捩くって遣ても宜いじゃないかと、態と勧めるような風であったけれども、私は夫れ程に思わぬ、「御同前に年はモウ四十以上ではないか、先ず/\ソンナ無益な殺生は罷にしようと云て、笑て分れたことがある。
現代語訳
およそ当時の政変は、政府の人たちの発狂とでもいうような有様でした。私はその後、岩倉からたびたび呼びに来たので、こっそり裏の茶室のような所で面会しました。主人公は何かひどく心配な様子で、このたびの一件は政府の中の、まことに容易ならぬ動揺である、西南戦争のときにもずいぶん苦労したが、今度の始末はそれよりも難しいなどと話すのを聞けば、よほど騒いだものと察せられます。実に馬鹿げたことで、政府は明治二十三年に国会を開くと国民に約束し、十年後には饗応しますといって案内状を出したようなものです。ところがその十年の間に、客人の気に入らないことばかり仕向けて、人を捕えて牢に入れたり東京の外に追い出したりし、それでもまだ足りず、役人たちは昔の大名や公卿の真似をして華族になって、これ見よがしに空威張りをするので、天下の人はますます腹を立てて暴れ回ります。何のことはない、饗応の主人と客とが、まだ顔も合わせないうちに角突き合いになっているのですから、おかしいものです。 十四年の真相の事実は、私が詳しく記して家に蔵めてありますが、今さら人の嫌がることを公にするでもなく、黙っています。そのとき私は寺島と極めて懇意なので、何もかも話して聞かせ、「どうだい、僕が今、口まめにしゃべって回れば、政府の中に相当困る奴が出るがね」と言うと、寺島も初めて聞いて驚き、「なるほどそうだ。政治上の魂胆はずいぶん汚いものとはいえ、これはあんまりひどい。少しひねってやってもいいじゃないか」と、わざと勧めるような様子でしたが、私はそれほどに思わず、「お互いもう年は四十以上ではないか。まあそんな無益な殺生はやめにしよう」と言って、笑って別れたことがあります。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・老余の半生・明治十四年の政変(1)この事に就て一寸と語りますが、明治十四年の頃、日本の政治社会に大騒動が起て、私の身にも大笑いな珍事が出来ました。明治十三年の冬、時の執政大隈、伊藤、井上の三人から私方に何か申して参て、或る処に面会して見ると、何か公報のような官報のような新聞紙を起すから私に担任して呉れろと云う。一向趣意が分らぬから先ず御免と申して去ると、その後度々人の往復を重ねて話が濃くなり、とう/\仕舞に、政府はいよ/\国会を開く積りでその用意の為めに新聞紙も起す事であると秘密を明かしたから、是れは近頃面白い話だ、ソンな事なら考え直して新聞紙も引受けようと凡そ約束は出来たが、マダ何時からと云う期日は定まらずに、そのまゝに年も明けて明治十四年と為り、十四年も春去秋来、頓と埒の明かぬ様子なれども、此方も左まで急ぐ事でないから打遣て置く中に、何か政府中に議論が生じたと見え、以前至極同主義でありし隈伊井の三人が漸く不和になって、その果ては大隈が辞職することになりました。扨大隈の辞職は左まで驚くに足らず、大臣の進退は毎度珍らしくもない事であるが、この辞職の一条が福澤にまで影響して来たのが大笑いだ。当時の政府の騒ぎは中々一通りでない。政府が動けば政界の小輩も皆動揺して、随て又種々様々の風聞を製造する者も多いその風聞の一、二を申せば、全体大隈と云うは専横な男で、様々に事を企てるその後には、福澤が居て謀主になってるその上に、三菱の岩崎弥太郎が金主になって既に三十万円の大金を出したそうだなんて、馬鹿な茶番狂言の筋書見たような事を触廻わして、ソレから大隈の辞職と共に政府の大方針が定まり、国会開設は明治二十三年と予約して色々の改革を施す中にも、従前の教育法を改めて所謂儒教主義を複活せしめ、文部省も一時妙な風になって来て、その風が全国の隅々までも靡かして、十何年後の今日に至るまで政府の人もその始末に当惑して居るでしょう。
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福翁自伝・老余の半生・一片の論説能く天下の人心を動かす(2)ソンな事が深い永い原因に違いはないけれども、不図した事で私が筆を執て、事の必要なる理由を論じて喋々喃々数千言、噛んでくゝめるように言て聞かせた跡で、間もなく天下の輿論が一時に持上て来たから、如何しても報知新聞の論説が一寸と導火になって居ましょう、その社説の年月を忘れたから先達箕浦に面会、昔話をして新聞の事を尋ねて見れば、同人もチャンと覚えて居て、その後古い報知新聞を貸して呉れて、中を見ると明治十二年の七月二十九日から八月十日頃まで長々と書並べて、一寸と辻褄が合て居ます。是れが今の帝国議会を開く為めの加勢になったかと思えば自分でも可笑しい。シテ見ると先きの明治十四年の騒動に、福澤が政治に関係するなんかんと云われて、その後も兎角私の身に目を着ける者が多くて色々に怪しまれたのも、直接に身に覚えのない事とは云いながら、間接には自から因縁のないではない。国会開設、改進々歩が国の為めに利益なればこそ善けれ、是れが実際の不利益ならば、私は現世の罪は免かれても死後閻魔の庁で酷い目に逢う筈でしょう。報知新聞の一件ばかりでない、政治上に就て私の言行は都てコンな塩梅式で、自分の身の私に利害はない所謂診察医の考で、政府の地位を占めて自から政権を振廻わして大下の治療をしようと云う了簡はないが、如何でもして国民一般を文明開化の門に入れて、この日本国を兵力の強い商売繁昌する大国にして見たいと計り、夫れが大本願で、自分独り自分の身に叶う丈けの事をして、政界の人に交際すればとて、誰に逢うても何ともない、別段に頼むこともなければ相談することもない、貧富苦楽、独り分に安んじて平気で居るから、考の違う役人達が私の平生を見たり聞たりして変に思うたのも決して無理でない、けれども真実に於て私は政府に対して少しも怨はない、役人達にも悪い人と思う者は一人もない、是れが封建門閥の時代に私の流儀にして居たらば、ソレコソ如何なる憂き目に逢て居るか知れない。今日安全に寿命を永くして居るのは明治政府の法律の賜と思て喜んで居ます。
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福翁自伝・老余の半生・一片の論説能く天下の人心を動かす(1)之を第一として、モ一つ本当の事を云うと、私の言論を以て政治社会に多少の影響を及ぼしたこともありましょう。例えば是れまで頓と人の知らぬ事で面白い話がある。明治十年、西南の戦争も片付て後、世の中は静になって、人間が却て無事に苦しむと云うとき、私が不図思付て、是れは国会論を論じたら天下に応ずる者もあろう、随分面白かろうと思て、ソレからその論説を起草して、マダその時には時事新報と云うものはなかったから、報知新聞の主筆藤田茂吉、箕浦勝人にその草稿を見せて、「この論説は新聞の社説として出されるなら出して見なさい、屹と世間の人が悦ぶに違いない。但しこの草稿のまゝに印刷すると、文章の癖が見えて福澤の筆と云うことが分るから、文章の趣意は無論、字句までも原稿の通りにして、唯意味のない妨げにならぬ処をお前達の思う通りに直して、試みに出して御覧。世間で何と受けるか、面白いではないかと云うと、年の若い元気の宜い藤田、箕浦だから、大に悦んで草稿を持て帰て、早速報知新聞の社説に戴せました。当時、世の中にマダ国会論の勢力のない時ですから、この社説が果して人気に投ずるやら、又は何でもない事になって仕舞うやら、頓と見込みが付かぬ。凡そ一週間ばかり毎日のように社説欄内を填めて、又藤田、箕浦が筆を加えて東京の同業者を煽動するように書立てゝ、世間の形勢如何と見て居た所が、不思議なる哉、凡そ二、三ヶ月も経つと、東京市中の諸新聞は無論、田舎の方にも段々議論が喧しくなって来て、遂には例の地方の有志者が国会開設請願なんて東京に出て来るような騒ぎになって来たのは、面白くもあれば、又ヒョイと考直して見れば、仮令い文明進歩の方針とは云いながら、直に自分の身に必要がなければ物数寄と云わねばならぬその物数寄な政治論を吐て、図らずも天下の大騒ぎになって、サア留めどころがない、恰も秋の枯野に自分が火を付けて自分で当惑するようなものだと、少し怖くなりました。併し国会論の種は維新の時から蒔てあって、明治の初年にも民選議院云々の説もあり、その後とても毎度同様の主義を唱えた人も多い。
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福翁自伝・王政維新・洋行船中の談話夫れでも私に全く政治思想のないではない。例えば文久二年欧行の船中で松木弘安と箕作秋坪と私と三人、色々日本の時勢論を論じて、その時私が「ドウだ迚も幕府の一手持は六かしい、先ず諸大名を集めて独逸聯邦のようにしては如何と云うに、松木も箕作も、マアそんな事が穏かだろうと云う。夫れから段々身の上話に及んで、今日吾々共の思う通りを云えば、正米を年に二百俵貰うて親玉(将軍の事)の御師匠番になって、思う様に文明開国の説を吹込んで大変革をさして見たいと云うと、松木が手を拍て、左様だ/\、是れは遣て見たいと云たのは、松木の功名心もその時には二百俵の米を貰うて将軍に文明説を吹込むぐらいの事で、当時の洋学者の考は大抵皆大同小異、一身の為めに大きな事は考えない。後にその松木が寺島宗則となって、参議とか外務卿とか云う実際の国事に当たのは、実は本人の柄に於て商売違いであったと思います。 夫れは扨置き世の中の形勢を見れば、天下の浮浪即ち有志者は京都に集て居る。夫れから江戸の方では又幕府と云うものが勿論時の政府でリキンで居ると云う訳けで、日本の政治が東西二派に相分れて、勤王佐幕と云う二派の名が出来た。出来た所で、サア其処に至て私が如何するかと云うに、 第一、私は幕府の門閥圧制、鎖国士族が極々嫌いで之に力を尽す気はない。 第二、左ればとて彼の勤王家と云う一類を見れば、幕府より尚お一層甚だしい攘夷論で、こんな乱暴者を助ける気は固よりない。 第三、東西二派の理非曲直は姑く扨置き、男子が所謂宿昔青雲の志を達するは乱世に在り、勤王でも佐幕でも試みに当て砕けると云うが書生の事であるが、私にはその性質習慣がない。 今その次第を語りましょう。抑も私が始めて江戸に来た時からして幕府の人には感服しない。一寸と旗本御家人に出遇う所が、応接振りは上品で、田舎者と違い弁舌も好く行儀も立派であるが、何分にも外辺ばかりで、物事を微密に考える脳力もなければ又腕力も弱そうに見える、けれども先方は幕府の御直参、此方は又る影もない陪臣だから手の着けようもなく、旗本などに対してはその人の居ない処でも何様々々と尊敬して居るその塩梅式は、京都の御公卿様を取扱うように、唯見た所ばかりを丁寧にして心の中では見縊り抜て居た。
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福翁自伝・老余の半生・保安条例コンな訳で、私は十四年の政変のその時から、何も実際に関係はない、俗界に云う政治上の野心など思も寄らぬ事だから誠に平気で、唯他人のドタバタするのを見物して居るけれども、政府の目を以てこの見物人を見れば、又不思議なもので、色々な姿に写ると見える。明治何年か保安条例の出たとき、私もこの条例の科人になって東京を逐出されると云う風聞。ソレはその時塾に居た小野友次郎が警視庁に懇意の人があって、極内々その事を聞出して、私と同時に後藤象次郎も共に放逐と確に云うから、「ナニ殺されるではなし、イザと云えば川崎辺まで出て行けば宜いと申して居る中、その翌日か翌々日か小野が又来て、前の事は取消しになったと云うので事は済みました。又その後明治二十年頃かと思う、井上角五郎が朝鮮で何とやらしたと云うので捕えられて、その時の騒動と云うものは大変で、警察の役人が来て私方の家捜しサ。夫から井上が何か吟味に逢うて、福澤諭吉に証人になって出て来いと云て、私を態々裁判所に呼出して、タワイもない事を散々尋て、ドウかしたら福澤も科人の仲間にしたいと云うような風が見えました。都てコンな事は唯大間違で、私の身には何ともない。却て世の中の人心の動くその運動の方向緩急を視察して面白く思て居るが、又一歩を進めて虚心平気に考うれば、私が兎角政界の人に疑われると云うのも全く無理はない。第一私は何としても役人になる気がない、是れは世間に例の少ない事で、仕官流行、熱中奔走の世の中に、独りこれが嫌いと云えば、一寸と見て不審を起さねばならぬ。ソレもいよ/\官途に気がないとならば田舎にでも引込んで仕舞えば宜いに、都会の真中に居て然かも多くの人に交際して、口も達者に筆もまめに、洒蛙々々と饒舌たり書たりするから、世間の目に触れ易く、随て人に不審を懐かせるのも自然の勢である。
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福翁自伝・雑記・暗殺の患は政治家の方に廻わる凡そ私共の暗殺を恐れたのは、前に申す通り文久二、三年から明治六、七年頃までのことでしたが、世間の風潮は妙なもので、新政府の組織が次第に整頓して、随て執政者の権力も重きを成して、自から威福の行われるようになると同時に、天下の耳目は政府の一方に集り、私の不平も公衆の苦情も何も蚊もその原因を政府の当局者に帰して、之に加うるに羨望嫉妬の念を以てして、今度は政府の役人達が狙われるようになって来て、洋学者の方は大に楽になりました。喰違に岩倉公襲撃の頃からソロ/\始まって、明治十一年、大久保内務卿の暗殺以来、毎度の兇変は皆政治上の意味を含んで居るから、云わば学者の方は御留主になって、政治家の為めには誠に気の毒で万々推察しますが、私共は人に羨まれる事がないから、先ず以て今日は安心と思います。
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