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福翁自伝 / 雑記・独立敢て新事例を開く(8)

所で私はその手紙を見て先ず立腹したと申すは、榎本は兎も角も、その親戚身寄の者が江戸に居ながら嫌疑を恐れて便りをしないとは卑劣な奴だ、薄情な奴だ、実に幕府の人間は皆こんな者だ、好し乃公が一人で引受けて遣ると云う心が頭に浮んで来て、加うるに私は古川節蔵の一件で糺問所の様子を知て居るから、スグ江連の方へ返辞を出し、榎本は今糺問所に這入て居る、殺されるか助かるかソリャどうも分らない、分らないけれども何しろ煩いもしなければ何もせずに無事に居るので御座る、その事を阿母さん始め皆さんへ伝えて呉れよと云て遣ると、又重ねて手紙を寄越して、老母と姉が東京に出たいと云うが上京しても宜しかろうかと云て来たから、颯々と御出なさい、私方に嫌疑もなんにもない、公然と出て御出でなさいと返辞をすると、間もなく老人と姉さんと母子二人出京して、ソレから糺問所の様子も分り差入物などして居る中に、阿母さんが是非釜次郎に逢いたいと云出した。所が法律も何もない世の中で、何処に訴えて如何しようと云う方角が分らない。ソコで私が一案を工風して、老母から哀願書を差出すことにして、私が認めた案文のその次第は、云々今般倅釜次郎犯罪の儀、誠に以て恐れ入ります、同人事は実父円兵衛存命中斯様々々、至極孝心深き者で、父に事えて平生は云々、又その病中の看病は云々、私は現在ソレを見て居ます、この孝行者にこの不忠を犯す筈はない、彼れに限て悪い根性の者では御在ません、ドウゾ御慈悲に御助けを願います、私はモウ余命もない者で御座るから、いよ/\釜次郎を刑罰とならばこの母を身代りとして殺して下さいと云う趣意で、分らない理窟を片言交りにゴテ/\厚かましく書て、姉さんのお楽さんに清書をさせて、ソレからお婆さんが杖をついて哀願書を持て糺問所に出掛けた処が、コレは余程監守の人を感動さしたと見え、固よりこんな事で罪人の助かる訳けはないが、とう/\仕舞に獄窓を隔てゝ母子面会だけは叶いました。夫れ是れする中に爰に妙な都合の宜い事が出来ましたその次第は、榎本が箱館で降参のとき、自分が嘗て和蘭在留中学び得たる航海術の講義筆記を秘蔵して居るその筆記の蘭文の書を、国の為めにとて官軍に贈て、その書が官軍の将官黒田良助(黒田清降)の手にあると云うことを聞きました。

書き下し

所で私はその手紙を見て先ず立腹したと申すは、榎本は兎も角も、その親戚身寄の者が江戸に居ながら嫌疑を恐れて便りをしないとは卑劣な奴だ、薄情な奴だ、実に幕府の人間は皆こんな者だ、好し乃公が一人で引受けて遣ると云う心が頭に浮んで来て、加うるに私は古川節蔵の一件で糺問所の様子を知て居るから、スグ江連の方へ返辞を出し、榎本は今糺問所に這入て居る、殺されるか助かるかソリャどうも分らない、分らないけれども何しろ煩いもしなければ何もせずに無事に居るので御座る、その事を阿母さん始め皆さんへ伝えて呉れよと云て遣ると、又重ねて手紙を寄越して、老母と姉が東京に出たいと云うが上京しても宜しかろうかと云て来たから、颯々と御出なさい、私方に嫌疑もなんにもない、公然と出て御出でなさいと返辞をすると、間もなく老人と姉さんと母子二人出京して、ソレから糺問所の様子も分り差入物などして居る中に、阿母さんが是非釜次郎に逢いたいと云出した。所が法律も何もない世の中で、何処に訴えて如何しようと云う方角が分らない。ソコで私が一案を工風して、老母から哀願書を差出すことにして、私が認めた案文のその次第は、云々今般倅釜次郎犯罪の儀、誠に以て恐れ入ります、同人事は実父円兵衛存命中斯様々々、至極孝心深き者で、父に事えて平生は云々、又その病中の看病は云々、私は現在ソレを見て居ます、この孝行者にこの不忠を犯す筈はない、彼れに限て悪い根性の者では御在ません、ドウゾ御慈悲に御助けを願います、私はモウ余命もない者で御座るから、いよ/\釜次郎を刑罰とならばこの母を身代りとして殺して下さいと云う趣意で、分らない理窟を片言交りにゴテ/\厚かましく書て、姉さんのお楽さんに清書をさせて、ソレからお婆さんが杖をついて哀願書を持て糺問所に出掛けた処が、コレは余程監守の人を感動さしたと見え、固よりこんな事で罪人の助かる訳けはないが、とう/\仕舞に獄窓を隔てゝ母子面会だけは叶いました。夫れ是れする中に爰に妙な都合の宜い事が出来ましたその次第は、榎本が箱館で降参のとき、自分が嘗て和蘭在留中学び得たる航海術の講義筆記を秘蔵して居るその筆記の蘭文の書を、国の為めにとて官軍に贈て、その書が官軍の将官黒田良助(黒田清降)の手にあると云うことを聞きました。

現代語訳

私はその手紙を見て、まず腹を立てました。榎本は別として、その親戚や身寄りの者が江戸にいながら、嫌疑を恐れて便りをしないとは卑劣な奴だ、薄情な奴だ、実に幕府の人間はみなこんなものだ、よし、俺がひとりで引き受けてやる、という気持ちが頭に浮かんできて、そのうえ私は古川節蔵の一件で糺問所の様子を知っていますから、すぐ江連のほうへ返事を出しました。榎本は今、糺問所に入っている。殺されるか助かるか、それはどうも分からない。分からないが、何しろ煩ってもいなければ何もせず無事にいるのです、そのことを母上はじめ皆さんへ伝えてください、と言ってやると、また重ねて手紙をよこし、老母と姉が東京に出たいというが、上京してもよろしいだろうかと言ってきたので、さっさとお出でなさい、私の家に嫌疑も何もない、公然と出ておいでなさい、と返事をすると、まもなく老人と姉の母子二人が出京しました。それから糺問所の様子も分かり、差し入れなどをしているうちに、母上がぜひ釜次郎に会いたいと言い出しました。ところが、法律も何もない世の中で、どこに訴えてどうしようという方角が分かりません。そこで私が一案を工夫して、老母から哀願書を差し出すことにし、私が書いた案文の趣旨は次のとおりです。このたび倅釜次郎の犯罪の件は、誠に恐れ入ります。この者は実父円兵衛の存命中、これこれで、至極孝心深い者であり、父に仕えて平生は云々、またその病中の看病は云々、私は現にそれを見ています。この孝行者にこの不忠を犯すはずはない、彼に限って悪い根性の者ではありません、どうかご慈悲にお助けを願います。私はもう余命もない者ですから、いよいよ釜次郎を刑罰にするというなら、この母を身代わりとして殺してください、という趣意で、分からない理屈を片言交じりにごてごてと厚かましく書き、姉のお楽さんに清書をさせて、お婆さんが杖をついて哀願書を持って糺問所に出かけたところ、これはよほど監守の人を感動させたとみえ、もとよりこんなことで罪人が助かるわけはありませんが、ついには獄窓を隔てて母子が面会することだけは叶いました。そうこうするうちに、ここに妙に都合のよいことが起こりました。それは、榎本が箱館で降参のとき、自分がかつてオランダ在留中に学び得た航海術の講義筆記を秘蔵していた、そのオランダ語の筆記書を、国のためにと官軍に贈り、その書が官軍の将官黒田了助(黒田清隆)の手にあるということを聞いたのです。

解説

親戚が嫌疑を恐れて動かないことに、福沢は腹を立て、自分が引き受けると決めます。老母と姉を上京させ、公然と来なさいと励まし、牢に入った榎本との面会を叶えるため、母の哀願書の案文まで書いてやる。法も手続きもない時代に、できる範囲で最善の道を探る実行力が表れています。また、榎本が航海術の講義録を官軍に贈ったことが、次の布石になります。義憤から始まった行動が、具体的な手立てへと形を取る過程が見えます。

この章句が説くこと

榎本武揚哀願書母子面会航海術黒田清隆義憤

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