福翁自伝 / 雑記・独立敢て新事例を開く(7)
所が榎本釜次郎だ。釜次郎は節蔵よりか少し遅れて此方に帰て来て同じく糺問所の手に掛て居る。所が頓と音づれが分らない、と云うのは私は榎本と云う男は知て居ることは知て居る、途中で遇て一寸挨拶したぐらいな事はあるが、一緒に相対して共に語り共に論ずると云うような深い交際はない。だから余り気に止めて居なかった。所がこの榎本と云う一体の大本を云うと、あの阿母さんと云う人は素と一橋家の御馬方で林代次郎と云う日本第一乗馬の名人と云われた大家の娘で、この婦人が幕府の御徒士の榎本円兵衛と云う人に嫁して設けた次男が榎本釜次郎です。ソコでその林の家と私の妻の里の家とは回縁の遠い続合いになって居るから、ソレで前年中は榎本の家内の者も此方に来たことがある。又私の妻も小娘のときには祖母さんに連れられて榎本の家に行たことがあると云うので、少し往来の道筋が通て居て全く知らぬ人でない。所が榎本が今度糺問所の手に掛て居て、その節、榎本の阿母さんも姉さんもお内儀さんも静岡に居るが、一向釜次郎の処から便りがないので大に案じて居ると、丁度その時に榎本の妹の良人に江連加賀守と云う人があって、この人は素と幕府の外国奉行を勤めて居て私は外国方の飜訳方であったから能く知て居る。ソコで江連が静岡から私の処に手紙を寄越して、榎本はこの節どうして居るだろうか、頓と便りがないので母も姉も家内も日夜案じて居る、何でも江戸に来て居ると云う噂は風の便りに聞たけれども、ソレも確めることが出来ない、其れに就て江戸に親戚身寄の者に問合せたけれども、嫌疑を恐れてか只の一度も返辞を寄越した者がない、ソコで君の処に聞きに遣たら何か様子が分るだろうと思うが、ドウぞ知らして呉れぬかと云うことを縷々と書て来ました。
新字:所が榎本釜次郎だ。釜次郎は節蔵よりか少し遅れて此方に帰て来て同じく糺問所の手に掛て居る。所が頓と音づれが分らない、と云うのは私は榎本と云う男は知て居ることは知て居る、途中で遇て一寸挨拶したぐらいな事はあるが、一緒に相対して共に語り共に論ずると云うような深い交際はない。だから余り気に止めて居なかった。所がこの榎本と云う一体の大本を云うと、あの阿母さんと云う人は素と一橋家の御馬方で林代次郎と云う日本第一乗馬の名人と云われた大家の娘で、この婦人が幕府の御徒士の榎本円兵衛と云う人に嫁して設けた次男が榎本釜次郎です。ソコでその林の家と私の妻の里の家とは回縁の遠い続合いになって居るから、ソレで前年中は榎本の家内の者も此方に来たことがある。又私の妻も小娘のときには祖母さんに連れられて榎本の家に行たことがあると云うので、少し往来の道筋が通て居て全く知らぬ人でない。所が榎本が今度糺問所の手に掛て居て、その節、榎本の阿母さんも姉さんもお内儀さんも静岡に居るが、一向釜次郎の処から便りがないので大に案じて居ると、丁度その時に榎本の妹の良人に江連加賀守と云う人があって、この人は素と幕府の外国奉行を勤めて居て私は外国方の翻訳方であったから能く知て居る。ソコで江連が静岡から私の処に手紙を寄越して、榎本はこの節どうして居るだろうか、頓と便りがないので母も姉も家内も日夜案じて居る、何でも江戸に来て居ると云う噂は風の便りに聞たけれども、ソレも確めることが出来ない、其れに就て江戸に親戚身寄の者に問合せたけれども、嫌疑を恐れてか只の一度も返辞を寄越した者がない、ソコで君の処に聞きに遣たら何か様子が分るだろうと思うが、ドウぞ知らして呉れぬかと云うことを縷々と書て来ました。
書き下し
所が榎本釜次郎だ。釜次郎は節蔵よりか少し遅れて此方に帰て来て同じく糺問所の手に掛て居る。所が頓と音づれが分らない、と云うのは私は榎本と云う男は知て居ることは知て居る、途中で遇て一寸挨拶したぐらいな事はあるが、一緒に相対して共に語り共に論ずると云うような深い交際はない。だから余り気に止めて居なかった。所がこの榎本と云う一体の大本を云うと、あの阿母さんと云う人は素と一橋家の御馬方で林代次郎と云う日本第一乗馬の名人と云われた大家の娘で、この婦人が幕府の御徒士の榎本円兵衛と云う人に嫁して設けた次男が榎本釜次郎です。ソコでその林の家と私の妻の里の家とは回縁の遠い続合いになって居るから、ソレで前年中は榎本の家内の者も此方に来たことがある。又私の妻も小娘のときには祖母さんに連れられて榎本の家に行たことがあると云うので、少し往来の道筋が通て居て全く知らぬ人でない。所が榎本が今度糺問所の手に掛て居て、その節、榎本の阿母さんも姉さんもお内儀さんも静岡に居るが、一向釜次郎の処から便りがないので大に案じて居ると、丁度その時に榎本の妹の良人に江連加賀守と云う人があって、この人は素と幕府の外国奉行を勤めて居て私は外国方の飜訳方であったから能く知て居る。ソコで江連が静岡から私の処に手紙を寄越して、榎本はこの節どうして居るだろうか、頓と便りがないので母も姉も家内も日夜案じて居る、何でも江戸に来て居ると云う噂は風の便りに聞たけれども、ソレも確めることが出来ない、其れに就て江戸に親戚身寄の者に問合せたけれども、嫌疑を恐れてか只の一度も返辞を寄越した者がない、ソコで君の処に聞きに遣たら何か様子が分るだろうと思うが、ドウぞ知らして呉れぬかと云うことを縷々と書て来ました。
現代語訳
ところが榎本釜次郎です。釜次郎は節蔵より少し遅れてこちらに帰って来て、同じく糺問所の手にかかっています。ところがさっぱり音沙汰が分かりません。というのは、私は榎本という男を知っていることは知っていて、途中で会ってちょっと挨拶したぐらいのことはありますが、共に語り共に論ずるような深い交際はありません。だからあまり気に留めていませんでした。ところが、この榎本のそもそもの大本を言うと、あの母親という人は、もと一橋家の御馬方で、林代次郎という日本第一の乗馬の名人と言われた大家の娘で、この婦人が幕府の御徒士の榎本円兵衛という人に嫁して設けた次男が榎本釜次郎です。そこで、その林の家と私の妻の里の家とは、遠い縁続きになっているので、前年には榎本の家内の者がこちらに来たこともあり、また私の妻も小娘のときには祖母に連れられて榎本の家に行ったことがあるというので、少し往来の道筋が通っていて、全く知らぬ人ではありません。ところが、榎本がこのたび糺問所の手にかかり、そのとき榎本の母も姉も妻も静岡にいましたが、一向に釜次郎のところから便りがないので大いに案じていました。ちょうどそのとき榎本の妹の夫に江連加賀守という人があり、この人はもと幕府の外国奉行を勤めていて、私は外国方の翻訳方でしたからよく知っています。そこで江連が静岡から私のところに手紙をよこし、榎本はこのごろどうしているだろうか、さっぱり便りがないので、母も姉も家内も日夜案じている、江戸に来ているという噂は風の便りに聞いたが、それも確かめられない、それについて江戸の親戚や身寄りの者に問い合わせたが、嫌疑を恐れてか、ただの一度も返事をよこした者がない、そこで君のところに聞きにやったら何か様子が分かるだろうと思うが、どうぞ知らせてくれないか、ということをくどくどと書いて来ました。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・雑記・独立敢て新事例を開く(10)所が前申す通り榎本釜次郎と私とは刎頸の交と云う訳けではなし、何もそんなに力を入れる程の親切のあろう訳けもない、只仙台藩士の腰抜けを憤ったと同じ事で、幕府の奴の如何にも無気力不人情と云うことが癪に障たので、ソコでどうでも斯うでも助けて遣ろうと思て駈廻わりましたが、その節、毎度妻と話をして今でも覚えて居ます、私の申すに、扨榎本の為めに今日はこの通りに骨を折て居るが、是れは唯人間一人の命を助けるばかりの志で外になんにも趣意はない、元来榎本と云う男は深く知らないが随分何かの役に立つ人物に違いはない、少し気色の変た男ではあるが、何分にも出身が幕府の御家人だから殿様好きだ、今こそ牢に這入て居るけれども、是れが助かって出るようになれば、後日或は役人になるかも知れぬ、その時は例の通りの殿様風でぴん/\するような事があるかも知れない、その時になって殿様のぴん/\を見たり聞たりして、ヤレ昔を忘れて厚かましいだの可笑しいだのと云う念が兎の毛ほども腹の底にあっては、是れは榎本の悪いのでなく此方の卑劣と云うものだから、そんな事なら私は今日唯今から一切の周旋を止めるがドウだと妻に語れば、妻も私と同説で、左様な浅ましい卑しい了簡は決してないと申して、夫妻固く約束したことがあるが、後日に至て私の云た通りになったのが面白い。榎本が段々立身して公使になったり大臣になったりして立派な殿様になったのは、私が占八卦の名人のようだけれども、私の処にはチャント説が極まって居て、一切の事情を知る者は私と妻と両人より外にないから、榎本がドウなろうと私の家で噂をする者もない、子供などは今度のこの速記録を見て始めて合点するでしょう。
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福翁自伝・雑記・独立敢て新事例を開く(8)所で私はその手紙を見て先ず立腹したと申すは、榎本は兎も角も、その親戚身寄の者が江戸に居ながら嫌疑を恐れて便りをしないとは卑劣な奴だ、薄情な奴だ、実に幕府の人間は皆こんな者だ、好し乃公が一人で引受けて遣ると云う心が頭に浮んで来て、加うるに私は古川節蔵の一件で糺問所の様子を知て居るから、スグ江連の方へ返辞を出し、榎本は今糺問所に這入て居る、殺されるか助かるかソリャどうも分らない、分らないけれども何しろ煩いもしなければ何もせずに無事に居るので御座る、その事を阿母さん始め皆さんへ伝えて呉れよと云て遣ると、又重ねて手紙を寄越して、老母と姉が東京に出たいと云うが上京しても宜しかろうかと云て来たから、颯々と御出なさい、私方に嫌疑もなんにもない、公然と出て御出でなさいと返辞をすると、間もなく老人と姉さんと母子二人出京して、ソレから糺問所の様子も分り差入物などして居る中に、阿母さんが是非釜次郎に逢いたいと云出した。所が法律も何もない世の中で、何処に訴えて如何しようと云う方角が分らない。ソコで私が一案を工風して、老母から哀願書を差出すことにして、私が認めた案文のその次第は、云々今般倅釜次郎犯罪の儀、誠に以て恐れ入ります、同人事は実父円兵衛存命中斯様々々、至極孝心深き者で、父に事えて平生は云々、又その病中の看病は云々、私は現在ソレを見て居ます、この孝行者にこの不忠を犯す筈はない、彼れに限て悪い根性の者では御在ません、ドウゾ御慈悲に御助けを願います、私はモウ余命もない者で御座るから、いよ/\釜次郎を刑罰とならばこの母を身代りとして殺して下さいと云う趣意で、分らない理窟を片言交りにゴテ/\厚かましく書て、姉さんのお楽さんに清書をさせて、ソレからお婆さんが杖をついて哀願書を持て糺問所に出掛けた処が、コレは余程監守の人を感動さしたと見え、固よりこんな事で罪人の助かる訳けはないが、とう/\仕舞に獄窓を隔てゝ母子面会だけは叶いました。夫れ是れする中に爰に妙な都合の宜い事が出来ましたその次第は、榎本が箱館で降参のとき、自分が嘗て和蘭在留中学び得たる航海術の講義筆記を秘蔵して居るその筆記の蘭文の書を、国の為めにとて官軍に贈て、その書が官軍の将官黒田良助(黒田清降)の手にあると云うことを聞きました。
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福翁自伝・雑記・独立敢て新事例を開く(6)夫れから榎本(当年の釜次郎、今の武揚)の話をしましょう。前に申す通りに古川節蔵は私の家から脱走したようなもので、後で聞て見れば榎本よりか先きに脱走したそうで、房州鋸山とか何処とかに居た佐幕党の人を長崎丸に乗せて、ソレを箱根山に上げて、ソレで箱根の騒動が起たので、あれは古川節蔵が遣たのだと申します。節蔵が脱走した後で以て、脱走艦は追々函館に行て、夫れから古川の長崎丸と一処に又此方へ侵しに来た、と云うのは官軍方の東艦、即ち私などが亜米利加から持て来た東艦が官軍の船になって居る、ソレを分捕りしようと云うことを企てゝ、そうして奥州宮古と云う港で散々戦た所が、負けて仕舞て到頭降参して、夫れから東京へ護送せられて、その時は法律も裁判所も何もないときで、糺問所と云う牢屋のようなものがあって、その糺問所の手に掛って古川節蔵と、前年、私が米国に同行した小笠原賢蔵と云う海軍士官と、二人連れで霞ヶ関の芸州の屋敷に監禁されて居る。ソコで私は前には馬鹿をするなと云て止めたのであるけれども、監禁されて居ると云えば可哀想だ。幸い芸州の屋敷に懇意な医者が居るから、その医者の処に行て、ドウかして古川に遇いたいものだが遇わして呉れぬかと云たらば、番人も何も居ないようであったが、その医者の取計いで、遇わして呉れました。夫れから長屋の暗いような処に行て見ると二人がチャンと這入て居るから、私が先ず言葉を掛けて、「ザマア見ろ、何だ、仕様がないじゃないか。止めまいことか、あれ程乃公が止めたじゃないか。今更ら云たって仕方はないが、何しろ喰物が不自由だろう、着物が足りなかろうと云て、夫れから宅に帰て毛布を持て行て遣たり、牛肉の煮たのを持て行て遣たり、戦争中の様子や監禁の苦しさ加減を聞たりした事があるので、私は〔能く〕糺問所の有様を知て居ます。
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福翁自伝・雑記・独立敢て新事例を開く(9)所で人は誰か忘れたが、或日その書を私方に持参して、何の書だか分らぬがこの蘭文を飜訳して貰いたいと云うから、之を見れば兼て噂に聞た榎本の講義筆記に違いない。是れは面白いと思い、蘭文飜訳は易いことであるのを、私は先方に気を揉ませる積りで態と手を着けない。初めの方四、五枚だけ丁寧に分るように飜訳して、原本に添えて返して遣て、是れは如何にも航海にはなくてはならぬ有益な書に違いない、巻初の四、五枚を見ても分る、所が版本の原書なれば飜訳も出来るが、講義筆記であるからその講義を聴聞した本人でなければ何分にも分り兼ねる、誠に可惜い宝書で御座ると云て、私は榎本の筆記と知りながら知らぬ風をして唯飜訳の云々で気を揉まして、自然に榎本の命の助かるように、云わば伏線の計略を運らした積りである。又その時代には黒田も私方に来れば、私も黒田の家に行たこともある。何時か何処か時も処も忘れましたが、払が黒田に写真を贈たことがあるその写真は、亜米利加の南北戦争、南部敗北のとき、南部の大統領か大将か何でも有名の人が婦人の着物を着て逃げ掛けて居る写真で、私がその前年、亜米利加から持て帰て一枚あったから黒田に贈て、是れは亜米利加の南部の何と云う人で、逃げる時に斯う云う姿で逃げたと云う、敢て命を惜むでもなかろうけれども、又一方から云えば命は大切な者だ、何としても助かろうと思えば斯く見苦しい姿をしても逃げるのが当然の道である。人間と云うものは一度び命を取れば後で幾ら後悔しても取返しが付かない。ドウも榎本は大変な騒ぎをした男であるが、命だけは取らぬようにした方が得じゃないか、何しろこの写真を進上するから御覧なさいと云て、濃に話したこともある。爾うした所で、ドウやら斯うやらする間にいよ/\助かることになった、けれどもその助かると云うのは固より私の周旋したばかりで助かったと云う訳けではない、その時の真実内情の噂を聞けば長州勢はドウも榎本等を殺すような勢があった、ソコで薩州の藩士がソレを助けようと云う意味があったと云うから、長州勢に任かせたら或は殺されたかも知れぬ。何れ大西郷などがリキンでとう/\助かるようになったのでしょう。是れは私の為めには大童信太夫よりか余程骨の折れた仕事でした。彼れ此れする中に私が煩い付て、その事は病後まで引張て居て、病気全快に及ぶと云うときだから、明治三年にいよ/\放免になりましたが、唯残念で気の毒なのは、阿母さんは愛子の出獄前に病死しました。
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福翁自伝・王政維新・古川節蔵脱走夫れから古川節蔵は長崎丸と云う船の艦長であったが、榎本釜次郎よりも先駈けして脱走すると云うので、私にその事を話した。所が節蔵は先年私が大阪から連れて来た男で、弟のようにして居たから、私はその話を聞て親切に止めました。「ソリャ止すが宜い、迚も叶わない、戦争すれば必ず負けるに違いない。東西ドチラが正しいとか正しくないとか云うような理非曲直は云わないが、何しろ斯う云う勢になったからは、モウ船に乗て脱走したからとて勝てそうにもしないから、ソレは思い止まるが宜いと云た所が、節蔵はマダなか/\強気で、「ナアに屹度勝つ、是れから出掛けて行て、諸方に出没して居る同志者をこの船に乗せて便利の地に挙げて、官軍が江戸の方に遣て来るその裏を衡て、夫れから大阪湾に行て掻廻せば官軍が狼狽すると云うような事になって、屹度勝算はありますと云て、中々私の云うことを聞かないから、「爾うか、ソレならば勝手にするが宜い、乃公はモウ負けても勝ても知らないぞ。だが乃公は足下を助けようとは思わぬ。唯可哀そうなのはお政さんだ(節蔵氏の内君)、ソレ丈けは生きて居られるように世話をして遣る、足下は何としても云う事を聞かないから仕方がない、ドウでもしなさいと云て別れたことがあります。
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