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福翁自伝 / 緒方の塾風・黒田公の原書を引取る(2)

見ることは止めにして、サア写すのだ。併し千頁もある大部の書を皆写すことは迚も出来られないから、末段のエレキトルの処丈け写そう。一同筆紙墨の用意して愡掛りだと云た所で茲に一つ困る事には、大切な黒田様の蔵書を毀すことが出来ない。毀して手分て遣れば、三十人も五十人も居るから瞬く間に出来て仕舞うが、それは出来ない。けれども緒方の書生は原書の写本に慣れて妙を得て居るから、一人が原書を読むと一人は之を耳に聞て写すことが出末る。ソコデ一人は読む、一人は写すとして、写す者が少し疲れて筆が鈍て来ると直に外の者が交代して、その疲れた者は朝でも昼でも直に寝ると斯う云う仕組にして、昼夜の別なく、飯を喰う間も煙草を喫む間も休まず、一寸とも隙なしに、凡そ二夜三日の間に、エレキトルの処は申すに及ばず、図も写して読合まで出来て仕舞て、紙数は凡そ百五、六十枚もあったと思う。ソコデ出来ることなら外の処も写したいと云たが時日が許さない。マア/\是れだけでも写したのは有難いと云うばかりで、先生の話に、黒田侯はこの一冊を八十両で買取られたと聞て、貧書生等は唯驚くのみ。固より自分に買うと云う野心も起りはしない。愈よ今夕、侯の御出立と定まり、私共はその原書を撫くり廻し誠に親に暇乞をするように別を惜んで還したことがございました。夫れから後は塾中にエレキトルの説が全く面目を新にして、当時の日本国中最上の点に達して居たと申して憚りません。私などが今日でも電気の話を聞て凡そその方角の分るのは、全くこの写本の御蔭である。誠に因縁のある珍らしい原書だから、その後度々今の黒田侯の方へ、ひょっと彼の原書はなかろうかと問合せましたが、彼方でも混雑の際であったから如何なったか見当らぬと云う。可惜い事で御在ます。

書き下し

見ることは止めにして、サア写すのだ。併し千頁もある大部の書を皆写すことは迚も出来られないから、末段のエレキトルの処丈け写そう。一同筆紙墨の用意して愡掛りだと云た所で茲に一つ困る事には、大切な黒田様の蔵書を毀すことが出来ない。毀して手分て遣れば、三十人も五十人も居るから瞬く間に出来て仕舞うが、それは出来ない。けれども緒方の書生は原書の写本に慣れて妙を得て居るから、一人が原書を読むと一人は之を耳に聞て写すことが出末る。ソコデ一人は読む、一人は写すとして、写す者が少し疲れて筆が鈍て来ると直に外の者が交代して、その疲れた者は朝でも昼でも直に寝ると斯う云う仕組にして、昼夜の別なく、飯を喰う間も煙草を喫む間も休まず、一寸とも隙なしに、凡そ二夜三日の間に、エレキトルの処は申すに及ばず、図も写して読合まで出来て仕舞て、紙数は凡そ百五、六十枚もあったと思う。ソコデ出来ることなら外の処も写したいと云たが時日が許さない。マア/\是れだけでも写したのは有難いと云うばかりで、先生の話に、黒田侯はこの一冊を八十両で買取られたと聞て、貧書生等は唯驚くのみ。固より自分に買うと云う野心も起りはしない。愈よ今夕、侯の御出立と定まり、私共はその原書を撫くり廻し誠に親に暇乞をするように別を惜んで還したことがございました。夫れから後は塾中にエレキトルの説が全く面目を新にして、当時の日本国中最上の点に達して居たと申して憚りません。私などが今日でも電気の話を聞て凡そその方角の分るのは、全くこの写本の御蔭である。誠に因縁のある珍らしい原書だから、その後度々今の黒田侯の方へ、ひょっと彼の原書はなかろうかと問合せましたが、彼方でも混雑の際であったから如何なったか見当らぬと云う。可惜い事で御在ます。

現代語訳

見ることはやめにして、さあ写すのだ。ただし千頁もある大部の書をすべて写すことはとてもできないから、末段のエレキテルの所だけ写そう。一同、筆紙墨の用意をして総掛かりだ、と言ったところ、ここに一つ困ることがありました。大切な黒田様の蔵書を壊すことができない。壊して手分けすれば、三十人も五十人もいるから、またたく間にできてしまいますが、それはできません。けれども緒方の書生は、原書の写本に慣れて妙を得ているので、一人が原書を読むと一人はこれを耳で聞いて写すことができます。そこで一人は読む、一人は写すとして、写す者が少し疲れて筆が鈍ってくるとすぐに別の者が交代し、その疲れた者は朝でも昼でもすぐ寝るという仕組みにして、昼夜の別なく、飯を食う間も煙草を吸う間も休まず、一寸の隙もなく、およそ二晩三日の間に、エレキテルの所は言うまでもなく、図も写して読み合わせまでできてしまいました。紙数はおよそ百五、六十枚もあったと思います。そこでできることなら他の所も写したいと言いましたが、時日が許しません。まあまあ、これだけでも写したのはありがたいというばかりで、先生の話では、黒田侯はこの一冊を八十両で買い取られたと聞いて、貧書生たちはただ驚くばかり。もとより自分で買うという野心も起こりません。いよいよ今夕、侯のご出立と決まり、私たちはその原書を撫で回して、まことに親に暇乞いをするように別れを惜しんで返したことがございました。それから後は、塾中にエレキテルの説がまったく面目を新たにして、当時の日本国中で最上の点に達していたと申して憚りません。私などが今日でも電気の話を聞いて、おおよその方角が分るのは、まったくこの写本のおかげです。まことに因縁のある珍しい原書ですから、その後たびたび、今の黒田侯の方へ、ひょっとしてあの原書はないだろうかと問い合わせましたが、あちらでも混雑の際でしたから、どうなったか見当たらないと言います。惜しいことでございます。

解説

借り物の原書を壊さずに、二晩三日で百五、六十枚を写し切った場面です。読む者と写す者に分かれ、疲れたら交代して仮眠を取るという分業の仕組みが、交代制の仕事の先駆のように見えます。八十両という高価な本を、貧書生が知識として吸収した事実が印象的です。持ち主に返す別れを親との暇乞いにたとえる表現に、知識への切実な愛情が表れています。限られた期間に成果を出すため、役割分担と交代の仕組みを整えるという姿勢は、現代のチームにも通じます。

この章句が説くこと

写本エレキテル分業交代黒田侯緒方塾

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