福翁自伝 / 緒方の塾風・黒田公の原書を引取る(1)
又筑前の国主、黒田美濃守と云う大名は、今の華族、黒田のお祖父さんで、緒方洪庵先生は黒田家に出入して、勿論筑前に行くでもなければ江戸に行くでもない、只大阪に居ながら黒田家の御出入医と云うことであった。故に黒田の殿様が江戸出府、或は帰国の時に大阪を通行する時分には、先生は屹度中ノ嶋の筑前屋敷に伺候して御機嫌を伺うと云う常例であった。或歳、安政三年か四年と思う。筑前侯が大阪通行になると云うので、先生は例の如く中ノ嶋の屋敷に行き、帰宅早々私を呼ぶから、何事かと思て行て見ると、先生が一冊の原書を出して見せて、「今日筑前屋敷に行たら、斯う云う原書が黒田侯の手に這入ったと云て見せて呉れられたから、一寸と借りて来たと云う。之を見ればワンダーベルトと云う原書で、最新の英書を和蘭に翻訳した物理書で、書中は誠に新らしい事ばかり、就中エレキトルの事が如何にも詳に書いてあるように見える。私などが大阪で電気の事を知たと云うのは、只纔に和蘭の学校読本の中にチラホラ論じてあるより以上は知らなかった。所がこの新舶来の物理書は英国の大家フラデーの電気説を土台にして、電池の構造法などがちゃんと出来て居るから、新奇とも何とも唯驚くばかりで、一見直に魂を奪われた。夫れから私は先生に向て、「是れは誠に珍らしい原書で御在ますが、何時まで此処に拝借して居ることが出来ましょうかと云うと、「左様さ。何れ黒田侯は二晩とやら大阪に泊ると云う。御出立になるまでは、彼処に入用もあるまい。「左様でございますか、一寸と塾の者にも見せとう御在ますと云て、塾へ持て来て、「如何だ、この原書はと云ったら、塾中の書生は雲霞の如く集って一冊の本を見て居るから、私は二、三の先輩と相談して、何でもこの本を写して取ろうと云うことに一決して、「この原書を唯見たって何にも役に立たぬ。
書き下し
又筑前の国主、黒田美濃守と云う大名は、今の華族、黒田のお祖父さんで、緒方洪庵先生は黒田家に出入して、勿論筑前に行くでもなければ江戸に行くでもない、只大阪に居ながら黒田家の御出入医と云うことであった。故に黒田の殿様が江戸出府、或は帰国の時に大阪を通行する時分には、先生は屹度中ノ嶋の筑前屋敷に伺候して御機嫌を伺うと云う常例であった。或歳、安政三年か四年と思う。筑前侯が大阪通行になると云うので、先生は例の如く中ノ嶋の屋敷に行き、帰宅早々私を呼ぶから、何事かと思て行て見ると、先生が一冊の原書を出して見せて、「今日筑前屋敷に行たら、斯う云う原書が黒田侯の手に這入ったと云て見せて呉れられたから、一寸と借りて来たと云う。之を見ればワンダーベルトと云う原書で、最新の英書を和蘭に翻訳した物理書で、書中は誠に新らしい事ばかり、就中エレキトルの事が如何にも詳に書いてあるように見える。私などが大阪で電気の事を知たと云うのは、只纔に和蘭の学校読本の中にチラホラ論じてあるより以上は知らなかった。所がこの新舶来の物理書は英国の大家フラデーの電気説を土台にして、電池の構造法などがちゃんと出来て居るから、新奇とも何とも唯驚くばかりで、一見直に魂を奪われた。夫れから私は先生に向て、「是れは誠に珍らしい原書で御在ますが、何時まで此処に拝借して居ることが出来ましょうかと云うと、「左様さ。何れ黒田侯は二晩とやら大阪に泊ると云う。御出立になるまでは、彼処に入用もあるまい。「左様でございますか、一寸と塾の者にも見せとう御在ますと云て、塾へ持て来て、「如何だ、この原書はと云ったら、塾中の書生は雲霞の如く集って一冊の本を見て居るから、私は二、三の先輩と相談して、何でもこの本を写して取ろうと云うことに一決して、「この原書を唯見たって何にも役に立たぬ。
現代語訳
また筑前の国主、黒田美濃守という大名は、今の華族の黒田のお祖父さんで、緒方洪庵先生は黒田家に出入りして、もちろん筑前に行くでもなければ江戸に行くでもなく、ただ大阪にいながら黒田家のお出入りの医者ということでした。ですから黒田の殿様が江戸へ出府、あるいは帰国の際に大阪を通行するときには、先生は必ず中之島の筑前屋敷に伺候して御機嫌を伺うのが常例でした。ある年、安政三年か四年と思います。筑前侯が大阪を通行されるというので、先生は例のとおり中之島の屋敷に行き、帰宅するなり私を呼ぶので、何事かと思って行ってみると、先生が一冊の原書を出して見せ、「今日筑前屋敷に行ったら、こういう原書が黒田侯の手に入ったと言って見せてくれたから、ちょっと借りてきた」と言います。これを見ると、ワンダーベルトという原書で、最新の英書をオランダ語に翻訳した物理書で、書中はまことに新しいことばかり、とりわけエレキテル(電気)のことがいかにも詳しく書いてあるように見えます。私などが大阪で電気のことを知ったというのは、ただわずかにオランダの学校読本の中にちらほら論じてあるより以上は知りませんでした。ところがこの新舶来の物理書は、英国の大家ファラデーの電気説を土台にして、電池の構造法などがちゃんとできているので、新奇とも何とも、ただ驚くばかりで、一見してすぐに魂を奪われました。それから私は先生に向かって、「これはまことに珍しい原書でございますが、いつまでここに拝借していることができましょうか」と言うと、「さよう。いずれ黒田侯は二晩とか大阪に泊まるという。ご出立になるまでは、あちらに入用もあるまい」「さようでございますか、ちょっと塾の者にも見せとうございます」と言って、塾へ持ってきて、「どうだ、この原書は」と言ったら、塾中の書生は雲霞のごとく集まって一冊の本を見ているから、私は二、三の先輩と相談して、何でもこの本を写し取ろうということに一決して、「この原書をただ見たって何の役にも立たぬ。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
福翁自伝・緒方の塾風・黒田公の原書を引取る(2)見ることは止めにして、サア写すのだ。併し千頁もある大部の書を皆写すことは迚も出来られないから、末段のエレキトルの処丈け写そう。一同筆紙墨の用意して愡掛りだと云た所で茲に一つ困る事には、大切な黒田様の蔵書を毀すことが出来ない。毀して手分て遣れば、三十人も五十人も居るから瞬く間に出来て仕舞うが、それは出来ない。けれども緒方の書生は原書の写本に慣れて妙を得て居るから、一人が原書を読むと一人は之を耳に聞て写すことが出末る。ソコデ一人は読む、一人は写すとして、写す者が少し疲れて筆が鈍て来ると直に外の者が交代して、その疲れた者は朝でも昼でも直に寝ると斯う云う仕組にして、昼夜の別なく、飯を喰う間も煙草を喫む間も休まず、一寸とも隙なしに、凡そ二夜三日の間に、エレキトルの処は申すに及ばず、図も写して読合まで出来て仕舞て、紙数は凡そ百五、六十枚もあったと思う。ソコデ出来ることなら外の処も写したいと云たが時日が許さない。マア/\是れだけでも写したのは有難いと云うばかりで、先生の話に、黒田侯はこの一冊を八十両で買取られたと聞て、貧書生等は唯驚くのみ。固より自分に買うと云う野心も起りはしない。愈よ今夕、侯の御出立と定まり、私共はその原書を撫くり廻し誠に親に暇乞をするように別を惜んで還したことがございました。夫れから後は塾中にエレキトルの説が全く面目を新にして、当時の日本国中最上の点に達して居たと申して憚りません。私などが今日でも電気の話を聞て凡そその方角の分るのは、全くこの写本の御蔭である。誠に因縁のある珍らしい原書だから、その後度々今の黒田侯の方へ、ひょっと彼の原書はなかろうかと問合せましたが、彼方でも混雑の際であったから如何なったか見当らぬと云う。可惜い事で御在ます。
-
福翁自伝・大阪修業・築城書を盗写す(1)夫れは夫れとして、私が今度不幸で中津に帰て居るその間に一つ仕事をしました、と云うのはその時に奥平壹岐と云う人が長崎から帰て居たから、勿論私は御機嫌伺に出なければならぬ。或日奥平の屋敷に推参して久々の面会、四方山の話の序に、主人公が一冊の原書を出して、「この本は乃公が長崎から持て来た和蘭新版の築城書であると云うその書を見た所が、勿論私などは大阪に居ても緒方の塾は医学塾であるから、医書、窮理書の外に遂ぞそんな原書を見たことはないから、随分珍書だと先ず私は感心しなければならぬ、と云うのはその時は丁度ペルリ渡来の当分で、日本国中、海防軍備の話が中々喧しいその最中に、この築城書を見せられたから誠に珍しく感じて、その原書が読で見たくて堪らない。けれども是れは貸せと云た所が貸す気遣はない。夫れからマア色々話をする中に、主人が「この原書は安く買うた。二十三両で買えたから」なんと云うたのには、実に貧書生の胆を潰すばかり。迚も自分に買うことは出来ず、左ればとてゆるりと貸す気遣はないのだから、私は唯原書を眺めて心の底で独り貧乏を歎息して居るその中に、ヒョイと胸に浮んだ一策を遣て見た。「成程是れは結構な原書で御在ます。迚も之を読で仕舞うと云うことは急な事では出来ません。責めては図と目録とでも一通り拝見したいものですが、四、五日拝借は叶いますまいかと手軽に触って見たらば、「よし貸そう」と云て貸して呉れたこそ天与の僥倖、ソレカラ私は家に持て帰て、即刻鵞筆と墨と紙を用意してその原書を初から写掛けた。凡そ二百頁余のものであったと思う。それを写すに就ては誰にも言われぬのは勿論、写す処を人に見られては大変だ。家の奥の方に引込んで一切客に遇わずに、昼夜精切り一杯、根のあらん限り写した。そのとき私は藩の御用で城の門の番をする勤があって、二、三日目に一昼夜当番する順になるから、その時には昼は写本を休み、夜になれば窃と写物を持出して、朝、城門の明くまで写して、一目も眠らないのは毎度のことだが、又この通りに勉強しても、人間世界は壁に耳あり眼もあり、既に人に悟られて今にも原書を返せとか何とか云て来はしないだろうか、いよ/\露顕すれば唯原書を返したばかりでは済まぬ、御家老様の剣幕で中々六かしくなるだろうと思えば、その心配は堪らない。
-
福翁自伝・大阪修業・先生の大恩、緒方の食客となる船中無事大阪に着たのは宜しいが、唯生きて身体が着た計りで、扨て修業をすると云う手当は何もない。ハテ如何したものかと思た所が仕方がない。何しろ先生の処へ行てこの通り言おうと思て、夫から、大阪着はその歳の十一月頃と思う、その足で緒方へ行て、「私は兄の不幸、斯う/\云う次第で又出て参りましたと先ず話をして、夫から私は先生だからほんとうの親と同じ事で何も隠すことはない、家の借金の始末、家財を売払うた事から、一切万事何もかも打明けて、彼の原書写本の一条まで真実を話して、「実は斯う云う築城書を盗写してこの通り持て参りましたと云た所が、先生は笑て、「爾うか、ソレは一寸との間に怪しからぬ悪い事をしたような又善い事をしたような事じゃ。何は扨置き貴様は大造見違えたように丈夫になった。「左様で御在ます。身体は病後ですけれども、今歳の春大層御厄介になりましたその時の事はモウ覚えませぬ。元の通り丈夫になりました。「それは結構だ。ソコデお前は一切聞て見ると如何しても学費のないと云うことは明白に分ったから、私が世話をして遣りたい、けれども外の書生に対して何かお前一人に贔屓するようにあっては宜くない。待て/\。その原書は面白い。就ては乃公がお前に云付けてこの原書を訳させると、斯う云うことに仕よう、そのつもりで居なさいと云て、ソレカラ私は緒方の食客生になって、医者の家だから食客生と云うのは調合所の者より外にありはしませぬが、私は医者でなくて只飜訳と云う名義で医家の食客生になって居るのだから、その意味は全く先生と奥方との恩恵好意のみ、実際に飜訳はしてもしなくても宜いのであるけれども、嘘から出た誠で、私はその原書を飜訳して仕舞いました。
-
福翁自伝・緒方の塾風・自身自力の研究(1)扨その写本の物理書、医書の会読を如何するかと云うに、講釈の為人もなければ読んで聞かして呉れる人もない。内証で教えることも聞くことも書生間の恥辱として、万々一も之を犯す者はない。唯自分一人で以てそれを読砕かなければならぬ。読砕くには文典を土台にして辞書に便る外に道はない。その辞書と云うものは、此処にヅーフと云う写本の字引が塾に一部ある。是れは中々大部なもので、日本の紙で凡そ三千枚ある。之を一部拵えると云うことは中々大きな騒ぎで容易に出来たものではない。是れは昔長崎の出島に在留して居た和蘭のドクトル・ヅーフと云う人が、ハルマと云う独逸和蘭対訳の原書の字引を飜訳したもので、蘭学社会唯一の宝書と崇められ、夫れを日本人が伝写して、緒方の塾中にもたった一部しかないから、三人も四人もヅーフの周囲に寄合て見て居た。夫れからモウ一歩立上るとウエーランドと云う和蘭の原書の字引が一部ある。それは六冊物で和蘭の註が入れてある。ヅーフで分らなければウエーランドを見る。所が初学の間はウエーランドを見ても分る気遣はない。夫ゆえ便る所は只ヅーフのみ。会読は一六とか三八とか大抵日が極って居て、いよ/\明日が会読だと云うその晩は、如何な懶惰生でも大抵寝ることはない。ヅーフ部屋と云う字引のある部屋に、五人も十人も群をなして無言で字引を引つゝ勉強して居る。夫れから翌朝の会読になる。会読をするにも籤で以て此処から此処までは誰と極めてする。会頭は勿論原書を持て居るので、五人なら五人、十人なら十人、自分に割当てられた所を順々に講じて、若しその者が出来なければ次に廻す。又その人も出来なければその次に廻す。その中で解し得た者は白玉、解し傷うた者は黒玉、夫れから自分の読む領分を一寸でも滞りなく立派に読んで了ったと云う者は白い三角を付ける。是れは只の丸玉の三倍ぐらい優等な印で、凡そ塾中の等級は七、八級位に分けてあった。而して毎級第一番の上席を三ヶ月占て居れば登級すると云う規則で、会読以外の書なれば、先進生が後進生に講釈もして聞かせ不審も聞て遣り至極深切にして兄弟のようにあるけれども、会読の一段になっては全く当人の自力に任せて構う者がないから、塾生は毎月六度ずつ試験に逢うようなものだ。爾う云う訳けで次第々々に昇級すれば、殆んど塾中の原書を読尽して云わば手を空うするような事になる、その時には何か六かしいものはないかと云うので、実用もない原書の緒言とか序文とか云うような者を集めて、最上等の塾生だけで会読をしたり、又は先生に講義を願たこともある。私などは即ちその講義聴聞者の一人でありしが、之を聴聞する中にも様々先生の説を聞て、その緻密なることその放胆なること実に蘭学界の一大家、名実共に違わぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾に帰て朋友相互に、「今日の先生の彼の卓説は如何だい。何だか吾々は頓に無学無識になったようだなどゝ話したのは今に覚えて居ます。
-
福翁自伝・緒方の塾風・原本写本会読の法それから塾で修行するその時の仕方は如何云う塩梅であったかと申すと、先ず始めて塾に入門した者は何も知らぬ。何も知らぬ者に如何して教えるかと云うと、その時江戸で飜刻になって居る和蘭の文典が二冊ある。一をガランマチカと云い、一をセインタキスと云う。初学の者には先ずそのガランマチカを教え、素読を授る傍に講釈をもして聞かせる。之を一冊読了るとセインタキスを又その通にして教える。如何やら斯うやら二冊の文典が解せるようになった所で会読をさせる。会読と云うことは生徒が十人なら十人、十五人なら十五人に会頭が一人あって、その会読するのを聞て居て、出来不出来に依て白玉を附けたり黒玉を付けたりすると云う趣向で、ソコで文典二冊の素読も済めば講釈も済み会読も出来るようになると、夫れから以上は専ら自身自力の研究に任せることにして、会読本の不審は一字半句も他人に質問するを許さず、又質問を試みるような卑劣な者もない。緒方の塾の蔵書と云うものは物理書と医書とこの二種類の外に何もない。ソレモ取集めて僅か十部に足らず、固より和蘭から舶来の原書であるが、一種類唯一部に限ってあるから、文典以上の生徒になれば如何してもその原書を写さなくてはならぬ。銘々に写して、その写本を以て毎月六才位会読をするのであるが、之を写すに十人なら十人一緒に写す訳けに行かないから、誰が先に写すかと云うことは籤で定めるので、扨その写しようは如何すると云うに、その時には勿論洋紙と云うものはない、皆日本紙で、紙を能く磨て真書で写す。それはどうも埓が明かないから、その紙に礬水をして、夫れから筆は鵞筆で以て写すのが先ず一般の風であった。その鵞筆と云うのは如何云うものであるかと云うと、その時大阪の薬種屋か何かに、鶴か雁かは知らぬが、三寸ばかりに切た鳥の羽の軸を売る所が幾らもある。是れは鰹の釣道具にするものとやら聞て居た。価は至極安い物で、それを買て、磨澄ました小刀で以てその軸をペンのように削って使えば役に立つ。夫れから墨も西洋インキのあられよう訳けはない。日本の墨壺と云うのは、磨た墨汁を綿か毛氈の切布に浸して使うのであるが、私などが原書の写本に用うるのは、只墨を磨たまゝ墨壺の中に入れて今日のインキのようにして貯えて置きます。斯う云う次第で、塾中誰でも是非写さなければならぬから写本は中々上達して上手である。一例を挙ぐれば、一人の人が原書を読むその傍で、その読む声がちゃんと耳に這入て、颯々と写してスペルを誤ることがない。斯う云う塩梅に読むと写すと二人掛りで写したり、又一人で原書を見て写したりして、出来上れば原書を次の人に廻す。その人が写丁ると又その次の人が写すと云うように順番にして、一日の会読分は半紙にして三枚か或は四、五枚より多くはない。
-
福翁自伝・大阪修業兄の申すことには私も逆らうことが出来ず、大阪に足を止めまして、緒方先生の塾に入門したのは安政二年卯歳の三月でした。その前長崎に居る時には勿論蘭学の稽古をしたので、その稽古をした所は楢林と云う和蘭通詞の家、同じく楢林と云う医者の家、それから石川桜所と云う蘭法医師、この人は長崎に開業して居て立派な門戸を張て居る大家であるから、中々入門することは出来ない。ソコで其処の玄関に行て調合所の人などに習って居たので、爾う云うように彼方此方にちょい/\と教えて呉れるような人があれば其処へ行く。何処の何某に便り誰の門人になってミッチリ蘭書を読だと云うことはないので、ソコで大阪に来て緒方に入門したのは是れが本当に蘭学修業の始まり、始めて規則正しく書物を教えて貰いました。その時にも私は学業の進歩が随分速くて、塾中には大勢書生があるけれども、その中ではマア出来の宜い方であったと思う。
人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る