普勧坐禅儀 / 第四段 光陰を虚しく度ること莫れ
凡夫自界他方、西天東地、等持佛印、一擅宗風。唯務打坐、被礙兀地。雖謂萬別千差、祗管參禪辨道。何抛却自家之坐牀、謾去來他國之塵境。若錯一歩、當面蹉過。
新字:凡夫自界他方、西天東地、等持仏印、一擅宗風。唯務打坐、被礙兀地。雖謂万別千差、祗管参禅弁道。何抛却自家之坐牀、謾去来他国之塵境。若錯一歩、当面蹉過。
書き下し
凡そ夫れ自界他方、西天東地、等しく仏印を持し、一ら宗風を擅にす。唯打坐を務めて、兀地に礙へらる。万別千差と謂ふと雖も、祗管に参禅弁道すべし。何ぞ自家の坐牀を抛却して、謾りに他国の塵境に去来せん。若し一歩を錯らば、当面に蹉過す。
現代語訳
おおよそこの世界も他の世界も、インドも中国も、等しく仏の心印を保ち、ひたすらその家風を広めてきた。ただ坐ることに務め、どっしりと坐ることに身をゆだねるばかりである。千差万別の道があると言っても、ひたすら坐禅して道を修めるべきである。どうして自分の家の坐る場所を投げ捨てて、むやみに他国の塵にまみれた境地へ行き来するのか。もし一歩を誤れば、目の前にあるものを取り逃がしてしまう。
解説
祗管は只管とも書き、道元の只管打坐の語の原型がここに見える。方法は無数にあると言われても、坐ることに徹せよという。自家の坐牀は自分の足もと、他国の塵境はよそに求める珍しい教えや刺激の比喩だ。当面蹉過は、目の前にあるのにすれ違って見失うことである。次々と新しい方法論に飛びつくうちに、手元の基本を一度も深めないまま終わる、という失敗への警告として読める。
この章句が説くこと
只管打坐足もと基本集中坐禅迷い
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