普勧坐禅儀 / 第三段 坐禅は安楽の法門
當知、正法自現前、昏散先撲落。若從坐起、徐徐動身、安詳而起、不應卒暴。嘗觀、超凡越聖、坐脱立亡、一任此力矣。
新字:当知、正法自現前、昏散先撲落。若従坐起、徐徐動身、安詳而起、不応卒暴。嘗観、超凡越聖、坐脱立亡、一任此力矣。
書き下し
当に知るべし、正法自ら現前し、昏散先づ撲落することを。若し坐より起たば、徐徐として身を動かし、安詳として起つべし、卒暴なるべからず。嘗て観る、超凡越聖、坐脱立亡も、此の力に一任することを。
現代語訳
知っておくがよい。正しい教えはおのずから目の前に現れ、眠気や散乱した心はまず打ち払われて落ちていくことを。もし坐から立ち上がるときは、ゆっくりと体を動かし、落ち着いて立ち上がらなければならない。慌ただしく乱暴に立ってはならない。これまで見てきたように、凡夫を超え聖者をも越えることも、坐ったまま、立ったまま亡くなるほどの境地も、すべてこの力にゆだねられているのである。
解説
昏散は昏沈と散乱で、眠気とそわそわした心のこと。坐禅を妨げる二大要因である。興味深いのは、悟りを語る流れの中に、立ち上がり方の注意が挟まれている点だ。坐の終わり方まで作法とすることで、坐禅の時間とそれ以外の生活とを乱暴に切り替えないよう求めている。会議や集中作業の直後に慌ただしく次へ移ると、それまでの静けさがすぐ散ってしまうことを思えば、この一句の意味は分かりやすい。
この章句が説くこと
昏沈散乱正法起居余韻集中
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