普勧坐禅儀 / 第三段 坐禅は安楽の法門
況復拈指竿針鎚之轉機、擧拂拳棒喝之證契、未是思量分別之所能解也、豈爲神通修證之所能知也。可爲聲色之外威儀、那非知見之前軌則者歟。
新字:況復拈指竿針鎚之転機、挙払拳棒喝之証契、未是思量分別之所能解也、豈為神通修証之所能知也。可為声色之外威儀、那非知見之前軌則者歟。
書き下し
況んや復た指竿針鎚を拈ずるの転機、払拳棒喝を挙するの証契も、未だ是れ思量分別の能く解する所にあらず、豈に神通修証の能く知る所とせんや。声色の外の威儀たるべし、那ぞ知見の前の軌則に非ざる者ならんや。
現代語訳
まして、指を立て、竿を示し、針や槌を取り上げて相手を転じさせる機縁も、払子を振り、拳を挙げ、棒で打ち、喝を浴びせて悟りに契わせるやり方も、思い量りや分別で理解できるものではない。どうして神通力や修行の成果で知ることのできるものであろうか。それは音や形を超えた振る舞いであり、どうして知識や見解より先にある規範でないことがあろうか。
解説
禅の歴史には、倶胝和尚が指を一本立てた話、徳山の棒、臨済の喝など、言葉によらない指導の逸話が数多くある。道元はそれらを並べたうえで、どれも頭で分析して分かるものではないと言う。しかも、特別な力や修行の成果によって分かるものでもない。坐禅の中にこそその働きがある、という主張へつなげる段である。成功者の奇抜なやり方を真似ても再現できないのは、形の奥の働きを見ていないからだ、とも読める。
この章句が説くこと
棒喝機縁分別禅問答威儀軌則
関連する章句
-
『普勧坐禅儀』第三段 坐禅は安楽の法門所謂坐禅は習禅には非ず、唯是れ安楽の法門なり、菩提を究尽するの修証なり。公案現成、籮籠未だ到らず。若し此の意を得ば、龍の水を得るが如く、虎の山に靠るに似たり。
-
『普勧坐禅儀』第三段 坐禅は安楽の法門然れば則ち上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡ぶこと莫れ。専一に功夫せば、正に是れ弁道なり。修証自ら染汚せず、趣向更に是れ平常なる者なり。
-
『普勧坐禅儀』第三段 坐禅は安楽の法門当に知るべし、正法自ら現前し、昏散先づ撲落することを。若し坐より起たば、徐徐として身を動かし、安詳として起つべし、卒暴なるべからず。嘗て観る、超凡越聖、坐脱立亡も、此の力に一任することを。
-
『普勧坐禅儀』第四段 光陰を虚しく度ること莫れ凡そ夫れ自界他方、西天東地、等しく仏印を持し、一ら宗風を擅にす。唯打坐を務めて、兀地に礙へらる。万別千差と謂ふと雖も、祗管に参禅弁道すべし。何ぞ自家の坐牀を抛却して、謾りに他国の塵境に去来せん。若し一歩を錯らば、当面に蹉過す。
-
『普勧坐禅儀』第二段 坐禅の作法兀兀として坐定して、箇の不思量底を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。
-
『普勧坐禅儀』第一段 道本円通原ぬるに夫れ、道本円通、争でか修証を仮らん。宗乗自在、何ぞ功夫を費さん。況んや全体逈かに塵埃を出づ、孰か払拭の手段を信ぜん。大都当処を離れず、豈に修行の脚頭を用ふる者ならんや。