普勧坐禅儀 / 第二段 坐禅の作法
兀兀坐定、思量箇不思量底。不思量底、如何思量、非思量、此乃坐禪之要術也。
新字:兀兀坐定、思量箇不思量底。不思量底、如何思量、非思量、此乃坐禅之要術也。
書き下し
兀兀として坐定して、箇の不思量底を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。
現代語訳
山のようにどっしりと坐り定まって、あの思い量らないところを思い量れ。思い量らないところを、どうやって思い量るのか。思量にあらず、である。これこそが坐禅の要となる術である。
解説
作法の段の結びに、道元は一つの問答を置く。これは唐の薬山惟儼が坐禅中に僧から問われて答えた言葉で、道元は坐禅の核心としてこれを採った。考えないようにするのは考えることであり、考えを無理に消そうとすればかえって考えに縛られる。非思量とは、考えが起きても追わず、消そうともしない状態を指すと読まれてきた。雑念を払おうとして疲れた経験のある人には、払わないという道が示されている。
この章句が説くこと
非思量不思量坐禅雑念薬山要術
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