不動智神妙録 / 心の置所
心を繋き猫のやうにして餘處にやるまいとて、我身に引止めて置けば、我身に心を取らるゝなり、身の內に捨て置けば餘處へは行かぬものなり、唯一所に止めぬ工夫是れ皆修行なり、心をばどつこにも止めぬが眼なり肝要なり、どつこにも置かねはどつこにもあるぞ、心を外へやりたる時も、心を一方に置けば九方は缺けるなり、心を一方に置かざれば十方にあるぞ。
新字:心を繋き猫のやうにして余処にやるまいとて、我身に引止めて置けば、我身に心を取らるゝなり、身の内に捨て置けば余処へは行かぬものなり、唯一所に止めぬ工夫是れ皆修行なり、心をばどつこにも止めぬが眼なり肝要なり、どつこにも置かねはどつこにもあるぞ、心を外へやりたる時も、心を一方に置けば九方は欠けるなり、心を一方に置かざれば十方にあるぞ。
書き下し
心を繋き猫のやうにして余処にやるまいとて、我身に引止めて置けば、我身に心を取らるゝなり、身の内に捨て置けば余処へは行かぬものなり、唯一所に止めぬ工夫是れ皆修行なり、心をばどつこにも止めぬが眼なり肝要なり、どつこにも置かねはどつこにもあるぞ、心を外へやりたる時も、心を一方に置けば九方は欠けるなり、心を一方に置かざれば十方にあるぞ。
現代語訳
心をつないだ猫のようにして、よそへやるまいと自分の身に引きとめておけば、自分の身に心を取られてしまいます。身の内に捨てておけば、よそへは行かないものです。ただ一か所にとどめない工夫、それがみな修行です。心をどこにもとどめないのが、眼目であり肝要なのです。どこにも置かなければ、どこにでもあるのです。心を外へやったときも、心を一方に置けば、ほかの九方は欠けてしまいます。心を一方に置かなければ、十方にあるのです。
解説
心を紐でつないだ猫のように縛っておけば、その縛ることに心を取られる。放っておけば、かえってよそへは行かない。そして、どこにも置かなければ、どこにでもある、という一句で締めくくる。この書の心の置所の議論を一言にまとめた名句である。部下を細かく管理して縛りつけるほど、かえって組織全体の動きが悪くなる、という経験にも重なる。信じて放つことで、かえって全体に目が行き届くのである。
この章句が説くこと
心の置所放つ管理十方修行名句
関連する章句
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『不動智神妙録』心の置所万事に堅まつたるは偏に落つるとて道に嫌ひ申す事なり、何処に置かうとて思ひなければ、心は全体に伸びひろごりて行き渡りて有るものなり、心をば何処にも置かずして、敵の働によりて当位々々心を其所々にて可用心歟、総身に渡つてあれば、手の入る時には手にある心を遣ふべし、足の入る時には足にある心を遣ふべし、一所に定めて置きたらば、其置きたる所より引出し遣らんとする程に、其処に止りて用が抜け申し候、
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『不動智神妙録』心の置所或人問ふて云ふは、心を臍の下に押込んで働かぬも不自由にして用が欠けば、我身の内にして何処にか心を可置ぞや、答へて曰く、右の手に置けば右の手に取られて身の用欠けるなり、心を眼に置けば眼に取られて身の用欠け申し候、右の足に心を置けば右の足に心を取られて身の用欠けるなり、何処なりとも一所に心を置けば余の方の用は皆欠けるなり然らは則ち心を何処に置くべきぞ、我答へて曰く、何処にも置かねば我身に一ばいに行きわたりて全体に延ひひろごりてある程に、手の入る時は手の用を叶へ、足の入る時は足の用を叶へ、目の入る時は目の用を叶へ、其入る所々に行きわたりてある程に、其入る所々の用を叶ふるなり、
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『不動智神妙録』心の置所心の置所 心を何処に置かうぞ、敵の身の働に心を置けば、敵の身の働に心を取らるゝなり、敵の太刀に心を置けは、敵の太刀に心を取らるゝなり、敵を切らんと思ふ所に心を置けば、敵を切らんと思ふ所に心を取らるゝなり、我太刀に心を置けば、我太刀に心を取らるゝなり、われ切られじと思ふ所に心を置けば、切られじと思ふ所に心を取らるゝなり、人の構に心を置けば、人の構に心を取らるゝなり、兎角心の置所はないと言ふ、
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『不動智神妙録』心の置所万一もし一所に定めて心を置くならば、一所に取られて用は欠くべきなり、思案すれバ思案に取らるゝ程に、思案をも分別をも残さず、心をは総身に捨て置き、所々に止めずして其所々に在て用をば外さず叶ふべし、心を一所に置けば偏に落つると云ふなり、偏とは一方に片付きたる事を云ふなり、正とは何処へも行き渡つたる事なり、正心とは総身へ心を伸べて一方へ付かぬを言ふなり、心の一処に片付きて一方は欠けるを偏心と申すなり、偏を嫌ひ申し候、
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『不動智神妙録』敬の字然れども仏法にては敬の字の心は至極の所にては無く候、我心を捉へて乱さぬやうにとて習ひ入る修行稽古の法にて候、此稽古年月つもりぬれば心を何方へ追放しやりても、自由なる位に行く事にて候、右の応無所住の位は向上至極の位にて候、敬の字の心は心の余所へ行くを引留めて遣るまい、遣れば乱るゝと思ひて卒度も油断なく心を引きつめて置く位にて候、是れは当座心を散らさぬ一旦の事なり、常に如是ありては不自由なる義なり、譬へば雀の子を捕へられ候て、猫の縄を常に引きつめて居ては馴れぬ位にて、我心を猫をつれたるやうにして不自由にしては、用が心のまゝに成る間敷候、猫によく仕付をして置いて縄を追放して行度き方へ遣り候て、雀と一つ居ても捕へぬやうにするが、応無所住而生其心の文の心にて候、我心を放し捨て猫のやうに打捨て、行度き方へ行きても心の止らぬやうに心を用ひ候、
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『不動智神妙録』心の置所或人問ふ、我心を兎角余所へやれば、心の行く所に志を取止めて敵に負けるほどに、我心を臍の下に押込めて余所にやらずして、敵の働により転化せよと云ふ、尤も左もあるべき事なり、然れども仏法の向上の段より見れば、臍の下に押込めて余所へやらぬと云ふは、段が卑きし向上にあらず、修行稽古の時の位なり、敬の字の位なり、又は孟子の放心を求めよと云ひたる位なり、上りたる向上の段にてはなし、敬の字の心持なり、放心の事は別書に記し進じ可有御覧候、臍の下に押込んで余所へやるまじきとすれば、やるまじと思ふ心に心を取られて先の用かげ殊の外不自由になるなり、