不動智神妙録 / 敬の字
然れども佛法にては敬の字の心は至極の所にては無く候、我心を捉へて亂さぬやうにとて習ひ入る修行稽古の法にて候、此稽古年月つもりぬれば心を何方へ追放しやりても、自由なる位に行く事にて候、右の應無所住の位は向上至極の位にて候、敬の字の心は心の餘所へ行くを引留めて遣るまい、遣れば亂るゝと思ひて卒度も油斷なく心を引きつめて置く位にて候、是れは當座心を散らさぬ一旦の事なり、常に如是ありては不自由なる義なり、譬へば雀の子を捕へられ候て、猫の繩を常に引きつめて居ては馴れぬ位にて、我心を猫をつれたるやうにして不自由にしては、用が心のまゝに成る間敷候、猫によく仕付をして置いて繩を追放して行度き方へ遣り候て、雀と一つ居ても捕へぬやうにするが、應無所住而生其心の文の心にて候、我心を放し捨て猫のやうに打捨て、行度き方へ行きても心の止らぬやうに心を用ひ候、
新字:然れども仏法にては敬の字の心は至極の所にては無く候、我心を捉へて乱さぬやうにとて習ひ入る修行稽古の法にて候、此稽古年月つもりぬれば心を何方へ追放しやりても、自由なる位に行く事にて候、右の応無所住の位は向上至極の位にて候、敬の字の心は心の余所へ行くを引留めて遣るまい、遣れば乱るゝと思ひて卒度も油断なく心を引きつめて置く位にて候、是れは当座心を散らさぬ一旦の事なり、常に如是ありては不自由なる義なり、譬へば雀の子を捕へられ候て、猫の縄を常に引きつめて居ては馴れぬ位にて、我心を猫をつれたるやうにして不自由にしては、用が心のまゝに成る間敷候、猫によく仕付をして置いて縄を追放して行度き方へ遣り候て、雀と一つ居ても捕へぬやうにするが、応無所住而生其心の文の心にて候、我心を放し捨て猫のやうに打捨て、行度き方へ行きても心の止らぬやうに心を用ひ候、
書き下し
然れども仏法にては敬の字の心は至極の所にては無く候、我心を捉へて乱さぬやうにとて習ひ入る修行稽古の法にて候、此稽古年月つもりぬれば心を何方へ追放しやりても、自由なる位に行く事にて候、右の応無所住の位は向上至極の位にて候、敬の字の心は心の余所へ行くを引留めて遣るまい、遣れば乱るゝと思ひて卒度も油断なく心を引きつめて置く位にて候、是れは当座心を散らさぬ一旦の事なり、常に如是ありては不自由なる義なり、譬へば雀の子を捕へられ候て、猫の縄を常に引きつめて居ては馴れぬ位にて、我心を猫をつれたるやうにして不自由にしては、用が心のまゝに成る間敷候、猫によく仕付をして置いて縄を追放して行度き方へ遣り候て、雀と一つ居ても捕へぬやうにするが、応無所住而生其心の文の心にて候、我心を放し捨て猫のやうに打捨て、行度き方へ行きても心の止らぬやうに心を用ひ候、
現代語訳
しかし、仏法では敬の字の心は、至極のところではありません。自分の心を捕らえて乱さないようにと習い入る、修行稽古の法なのです。この稽古を年月積めば、心をどこへ放しやっても、自由な位に行けるのです。先の応無所住の位は、向上の至極の位です。敬の字の心は、心がよそへ行くのを引きとめて行かせまい、行かせれば乱れると思って、少しも油断なく心を引きしめておく位です。これはその場で心を散らさない一時のことです。いつもこのようにしていては不自由です。たとえば、雀の子を捕らえられて、猫の縄をいつも引きしめていては、猫が馴れない位で、自分の心を、猫を連れているようにして不自由にしていては、心のままに働くことはできないでしょう。猫によくしつけをしておいて、縄を放して行きたい方へ行かせて、雀と一緒にいても捕らえないようにするのが、応無所住而生其心の文の心なのです。自分の心を放し捨てて、猫のように打ち捨てて、行きたい方へ行っても、心がとどまらないように心を用いるのです。
解説

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