師導古典を学びたいすべての人に

不動智神妙録 / 心の置所

或人問ふて云ふは、心を臍の下に押込んで働かぬも不自由にして用が缺けば、我身の內にして何處にか心を可置ぞや、答へて曰く、右の手に置けば右の手に取られて身の用缺けるなり、心を眼に置けば眼に取られて身の用缺け申し候、右の足に心を置けば右の足に心を取られて身の用缺けるなり、何處なりとも一所に心を置けば餘の方の用は皆缺けるなり然らは則ち心を何處に置くべきぞ、我答へて曰く、何處にも置かねば我身に一ばいに行きわたりて全體に延ひひろごりてある程に、手の入る時は手の用を叶へ、足の入る時は足の用を叶へ、目の入る時は目の用を叶へ、其入る所々に行きわたりてある程に、其入る所々の用を叶ふるなり、

新字:或人問ふて云ふは、心を臍の下に押込んで働かぬも不自由にして用が欠けば、我身の内にして何処にか心を可置ぞや、答へて曰く、右の手に置けば右の手に取られて身の用欠けるなり、心を眼に置けば眼に取られて身の用欠け申し候、右の足に心を置けば右の足に心を取られて身の用欠けるなり、何処なりとも一所に心を置けば余の方の用は皆欠けるなり然らは則ち心を何処に置くべきぞ、我答へて曰く、何処にも置かねば我身に一ばいに行きわたりて全体に延ひひろごりてある程に、手の入る時は手の用を叶へ、足の入る時は足の用を叶へ、目の入る時は目の用を叶へ、其入る所々に行きわたりてある程に、其入る所々の用を叶ふるなり、

書き下し

或人問ふて云ふは、心を臍の下に押込んで働かぬも不自由にして用が欠けば、我身の内にして何処にか心を可置ぞや、答へて曰く、右の手に置けば右の手に取られて身の用欠けるなり、心を眼に置けば眼に取られて身の用欠け申し候、右の足に心を置けば右の足に心を取られて身の用欠けるなり、何処なりとも一所に心を置けば余の方の用は皆欠けるなり然らは則ち心を何処に置くべきぞ、我答へて曰く、何処にも置かねば我身に一ばいに行きわたりて全体に延ひひろごりてある程に、手の入る時は手の用を叶へ、足の入る時は足の用を叶へ、目の入る時は目の用を叶へ、其入る所々に行きわたりてある程に、其入る所々の用を叶ふるなり、

現代語訳

ある人が問うて言う。心を臍の下に押し込んで働かないのも不自由で役に立たないのなら、自分の身の内のどこに心を置けばよいのか。答えて言う。右の手に置けば右の手に取られて、身の働きが欠けます。心を眼に置けば眼に取られて、身の働きが欠けます。右の足に心を置けば右の足に心を取られて、身の働きが欠けます。どこであれ一か所に心を置けば、ほかのところの働きはみな欠けてしまうのです。それでは、心をどこに置けばよいのか。わたしは答えて言う。どこにも置かなければ、心は自分の身にいっぱいに行き渡り、全体に広がっているので、手が必要なときは手の働きをかなえ、足が必要なときは足の働きをかなえ、目が必要なときは目の働きをかなえ、その必要な所々に行き渡っているので、その必要な所々の働きをかなえるのです。

解説

では心をどこに置けばよいのか、という核心の問いに、沢庵はどこにも置くなと答える。どこにも置かなければ、心は全身に行き渡り、手が必要なときには手に、足が必要なときには足に、自然と働く。一か所に置けば他が欠ける。組織に置き換えれば、トップが一つの部門や案件だけに心を注ぐと、他の部分が手薄になる。全体に心を行き渡らせておけば、必要な場面に必要な力が自然に向かう、という理想の在り方を示している。

この章句が説くこと

心の置所全体不動智組織働き自在

関連する章句

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ
いま登録すると、7日間すべての機能を無料でお試しいただけます。 無料ではじめる