不動智神妙録 / 理の修行 事の修行
理の修行、事の修行と申す事の候。理とは右に申し上げ候如く、至りては何も取あはず唯一心の捨やうにて候、段々右に書付け候如くにて候、然れども事の修行を不仕候えは、道理ばかり胸に有りて身も手も不働候、事の修行と申し候は、貴殿の兵法にてなれは身構の五箇に一字のさまざまの習事にて候、理を知りても事の自由に働かねばならず候、身に持つ太刀の取まはし能く候ても理の極り候所の闇く候ては相成間敷候、事理の二つは車の輪の如くなるべく候。
書き下し
理の修行、事の修行と申す事の候。理とは右に申し上げ候如く、至りては何も取あはず唯一心の捨やうにて候、段々右に書付け候如くにて候、然れども事の修行を不仕候えは、道理ばかり胸に有りて身も手も不働候、事の修行と申し候は、貴殿の兵法にてなれは身構の五箇に一字のさまざまの習事にて候、理を知りても事の自由に働かねばならず候、身に持つ太刀の取まはし能く候ても理の極り候所の闇く候ては相成間敷候、事理の二つは車の輪の如くなるべく候。
現代語訳
理の修行と事の修行というものがあります。理とは、先に申し上げたように、至り着けば何事にも取り合わず、ただ一つの心の捨て方のことです。これまで順々に書きつけてきたとおりです。しかし、事の修行をしなければ、道理ばかりが胸にあって、身も手も働きません。事の修行とは、あなたの兵法でいえば、身構えの五つの型、一字の構えなど、さまざまな習い事のことです。理を知っていても、事が自由に働かなければなりません。身に持つ太刀の扱いがうまくても、理の極まるところが暗くては、うまくいかないでしょう。事と理の二つは、車の両輪のようでなければなりません。
解説
心の在り方という理と、具体的な技や型という事は、どちらか一方では役に立たない、と沢庵は言う。心の話ばかりしてきたこの書が、ここで技の稽古の必要をはっきり認めているのが大切である。道理だけ分かっていても体は動かない。技だけ磨いても根本の理が暗ければ肝心なときに崩れる。理念と実務、戦略と実行、どちらも欠かせないという教訓として、あらゆる仕事にそのまま通じる。
この章句が説くこと
事理一致理念実務稽古両輪修行
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