塩鉄論 / 大論篇
文學曰:「孔子生於亂世、思堯、舜之道、東西南北、灼頭濡足、庶幾世主之悟。悠悠者皆是、君闇、大夫妒、孰合有媒?是以嫫母飾姿而矜誇、西子仿徨而無家。非不知窮厄而不見用、悼痛天下之禍、猶慈母之伏死子也、知其不可如何、然惡已。故適齊、景公欺之、適衛、靈公圍、陽虎謗之、桓魋害之。夫欺害聖人者、愚惑也、傷毀聖人者、狂狡也。狡惑之人、非人也。夫何恥之有!孟子曰:『觀近臣者以所為主、觀遠臣者以其所主。』使聖人偽容茍合、不論行擇友、則何以為孔子也!」
新字:文学曰:「孔子生於乱世、思堯、舜之道、東西南北、灼頭濡足、庶幾世主之悟。悠悠者皆是、君闇、大夫妒、孰合有媒?是以嫫母飾姿而矜誇、西子仿徨而無家。非不知窮厄而不見用、悼痛天下之禍、猶慈母之伏死子也、知其不可如何、然悪已。故適斉、景公欺之、適衛、霊公囲、陽虎謗之、桓魋害之。夫欺害聖人者、愚惑也、傷毀聖人者、狂狡也。狡惑之人、非人也。夫何恥之有!孟子曰:『観近臣者以所為主、観遠臣者以其所主。』使聖人偽容茍合、不論行択友、則何以為孔子也!」
書き下し
文學曰く、孔子は亂世に生まれ、堯・舜の道を思い、東西南北し、頭を灼き足を濡らす。庶幾わくは世主の悟らんことをと。悠悠たる者は皆な是れなり。君は闇く、大夫は妒む。孰か合えて媒有らん。是を以て嫫母は姿を飾りて矜誇し、西子は仿徨して家無し。窮厄して用いられざるを知らざるに非ず、天下の禍を悼痛すること、猶お慈母の死子に伏するがごとし。其の如何ともす可からざるを知る、然れども已むを惡めばなり。故に齊に適けば、景公之を欺き、衛に適けば、靈公圍み、陽虎之を謗り、桓魋之を害す。夫れ聖人を欺き害する者は、愚惑なり。聖人を傷毀する者は、狂狡なり。狡惑の人は、人に非ざるなり。夫れ何の恥か之れ有らん。孟子曰く、「近臣を觀るには主とする所を以てし、遠臣を觀るには其の主とする所を以てす」と。聖人をして容を偽り茍合せしめ、行いを論ぜず友を擇ばざらしめば、則ち何を以て孔子と為さんや。
現代語訳
文学が言った。「孔子は乱世に生まれ、堯や舜の道を思って、東へ西へ南へ北へと巡り、頭を焼かれ足を濡らしました。せめて世の君主が悟ってくれればと願ったのです。世はどこもかしこもそのありさまでした。君主は暗く、大夫は妬む。誰と気が合って仲人を得られましょう。だから醜女の嫫母が姿を飾って誇り、美女の西施はさまよって家が無かったのです。窮して用いられないと知らなかったのではありません。天下の禍を痛み悼むことが、慈しみ深い母が死んだ子に伏すようだったのです。どうにもならないと知りながら、やめるのが厭わしかった。だから斉へ行けば景公に欺かれ、衛へ行けば霊公に囲まれ、陽虎に謗られ、桓魋に害された。聖人を欺き害する者は、愚かで惑った者です。聖人を傷つけ毀す者は、狂って狡い者です。狡く惑った人は、人ではありません。何の恥がありましょう。孟子は『近臣を観るには何を主とするかで観、遠臣を観るには誰を主とするかで観る』と言いました。聖人に顔つきを偽らせ、いいかげんに迎合させ、行いを論じず友を選ばせないなら、どうしてそれを孔子と呼べましょう」
解説
この章句が説くこと
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