塩鉄論 / 疾貪篇
大夫曰:「賢不肖有質、而貪鄙有性、君子內潔己而不能純教於彼。故周公非不正管、蔡之邪、子產非不正鄧皙之偽也。夫內不從父兄之教、外不畏刑法之罪、周公、子產不能化、必也。今一一則責之有司、有司豈能縛其手足而使之無為非哉?」
新字:大夫曰:「賢不肖有質、而貪鄙有性、君子内潔己而不能純教於彼。故周公非不正管、蔡之邪、子産非不正鄧皙之偽也。夫内不従父兄之教、外不畏刑法之罪、周公、子産不能化、必也。今一一則責之有司、有司豈能縛其手足而使之無為非哉?」
書き下し
大夫曰く、賢不肖に質有り、而して貪鄙に性有り、君子は內に己を潔くするも彼を純教する能わず。故に周公は管・蔡の邪を正さざるに非ず、子產は鄧皙の偽を正さざるに非ざるなり。夫れ內は父兄の教に從わず、外は刑法の罪を畏れざれば、周公・子產も化する能わざること、必せり。今、一一に則ち之を有司に責むれば、有司豈に能く其の手足を縛りて之をして非を為すこと無からしめんや。
現代語訳
大夫が言った。「賢いか愚かかには生まれつきの質があり、貪り卑しいことにも生まれつきの性がある。君子は自分の内を清く保つことはできても、他人を丸ごと教え変えることはできない。周公が管叔・蔡叔の邪悪を正そうとしなかったわけではない。子産が鄧皙の偽りを正そうとしなかったわけではない。そもそも内では父兄の教えに従わず、外では刑法の罪を畏れない者なら、周公や子産でさえ教化できないに決まっている。それを一つ一つ担当官の責任にするのなら、担当官はその手足を縛って悪事をさせないようにでもしろというのか」
解説
「貪りは率いる側にある」と言い切られたことへの反論です。持ち出すのは生まれつきでした。**賢愚に質があり、貪りにも性がある。**教化には届かない領域がある、という主張で、証拠に周公と子産という最上級の名を挙げます。あの周公でさえ実の兄弟を正せなかった、と。だから末端の不正を一つ一つ上の責任に帰すなら、担当官は手足を縛るしかなくなる。責任をすべて上に集める議論に対して、いちばん出やすい返し方です。
この章句が説くこと
賢不肖に質有り貪鄙に性有り周公は管・蔡の邪を正さざるに非ず有司豈に能く其の手足を縛らんや素質教化限界
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