塩鉄論 / 救匱篇
賢良曰:「高皇帝之時、蕭、曹為公、滕、灌之屬為卿、濟濟然斯則賢矣。文、景之際、建元之始、大臣尚有爭引守正之義。自此之後、多承意從欲、少敢直言面議而正刺、因公而徇私。故武安丞相訟園田、爭曲直人主之前。夫九層之臺一傾、公輸子不能正、本朝一邪、伊、望不能復。故公孫丞相、倪大夫側身行道、分祿以養賢、卑己以下士、功業顯立、日力不足、無行人子產之繼。而葛繹、彭侯之等、隳壞其緒、紕亂其紀、毀其客館議堂、以為馬廄婦舍、無養士之禮、而尚驕矜之色、廉恥陵遲而爭於利矣。故良田廣宅、民無所之、不恥為利者滿朝市、列田畜者彌郡國、橫暴掣頓、大第巨舍之旁、道路且不通、此固難醫而不可為工。」大夫勃然作色、默而不應。
新字:賢良曰:「高皇帝之時、蕭、曹為公、滕、灌之属為卿、済済然斯則賢矣。文、景之際、建元之始、大臣尚有争引守正之義。自此之後、多承意従欲、少敢直言面議而正刺、因公而徇私。故武安丞相訟園田、争曲直人主之前。夫九層之台一傾、公輸子不能正、本朝一邪、伊、望不能復。故公孫丞相、倪大夫側身行道、分禄以養賢、卑己以下士、功業顕立、日力不足、無行人子産之継。而葛繹、彭侯之等、隳壊其緒、紕乱其紀、毀其客館議堂、以為馬廄婦舎、無養士之礼、而尚驕矜之色、廉恥陵遅而争於利矣。故良田広宅、民無所之、不恥為利者満朝市、列田畜者弥郡国、横暴掣頓、大第巨舎之旁、道路且不通、此固難医而不可為工。」大夫勃然作色、黙而不応。
書き下し
賢良曰く、高皇帝の時、蕭・曹公と為り、滕・灌の屬卿と為る、濟濟然として斯れ則ち賢なり。文・景の際、建元の始め、大臣に尚お爭引守正の義有り。此より後、多く意を承け欲に從い、敢えて直言面議して正しく刺る者少なく、公に因りて私に徇う。故に武安丞相は園田を訟え、曲直を人主の前に爭う。夫れ九層の臺一たび傾けば、公輸子も正す能わず、本朝一たび邪なれば、伊・望も復す能わず。故に公孫丞相・倪大夫は身を側めて道を行い、祿を分かちて以て賢を養い、己を卑くして以て士に下り、功業顯かに立つも、日力足らず、行人子產の繼ぐ無し。而して葛繹・彭侯の等、其の緒を隳壞し、其の紀を紕亂し、其の客館議堂を毀ちて、以て馬廄婦舍と為す、養士の禮無くして、驕矜の色を尚ぶ、廉恥陵遲して利に爭う。故に良田廣宅ありて、民の之く所無し、利を為すを恥じざる者は朝市に滿ち、田畜を列ぬる者は郡國に彌る、橫暴掣頓して、大第巨舍の旁、道路且つ通ぜず、此れ固より醫し難くして工を為すべからず。/大夫勃然として色を作し、默して應ぜず。
現代語訳
賢良が言った。「高祖の時代には蕭何と曹参が三公となり、夏侯嬰や灌嬰らが卿となった。堂々たる顔ぶれで、これこそ賢者というものです。文帝・景帝のころ、建元の初めまでは、大臣にはまだ諫めて正しさを守る気風がありました。それ以後は、多くが君主の意向を受けて欲に従い、面と向かって直言し正しく諫める者は少なくなり、公を口実に私に走るようになった。だから武安侯の丞相は田地の訴訟を起こし、君主の前で理非を争ったのです。そもそも九層の高殿がひとたび傾けば、公輸子でも直せません。朝廷がひとたび邪に傾けば、伊尹や太公望でも戻せません。だから公孫丞相と倪大夫は身を慎んで道を行い、俸禄を分けて賢者を養い、自らへりくだって士に接し、功業ははっきりと立てました。それでも日も力も足りず、子産のような後継者はいなかった。そこへ葛繹侯や彭侯らが現れ、その筋道を壊し、その規律を乱し、客をもてなす館と議事の堂を取り壊して馬小屋と女部屋にしてしまった。士を養う礼はなく、驕り高ぶる態度ばかりが尊ばれる。廉恥は衰え、利を争うようになった。だから良い田と広い屋敷はあっても、民には行くところがない。利を貪って恥じない者が朝廷にも市にも満ち、田地と家畜を並べる者が郡国に広がっている。横暴に人を引き立て、大きな屋敷のそばでは道すら通れない。これはもとより治しがたく、手の施しようがありません」。大夫はさっと顔色を変え、黙って応じなかった。
解説
この章句が説くこと
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『講孟余話』公孫丑下 首章「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」。此の義明白、復た論を待たず。今試みに是れを例言せん。夫れ人和を得て初めて地利用ふべし、天時用ふべし。故に国家の務めを論ずる時は、先づ人和を務むべし。人和已に得ば城高くすべし、池深くすべし、兵革堅利にすべし、米粟多くすべし、其の戦に臨みては天時も択ぶべし。是れを一身に譬ふるに、胸中固より忠孝の念を存する、是れ人和の如し。忠孝の念あらば文学も修むべし、武芸も講ずべし、武器も畜ふべし、是れ天時・地利の如し。故に忠孝の念なき者をして、文武を講修し、武器を畜へしめば、却つて害となり、其の身を全うすること能はざるの基なり。是れ人和を得ずして、地利・天時を恃むが如し。理は一なり。一身一家より国天下に通じ、皆別理あることなし。宜しく先後緩急の在る所を察すべし。先と云ひ急と云ふは、忠孝の念なり、人和なり。後と云ひ緩と云ふは、文学・武芸・武器等なり、天時・地利なり。
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『学問のすゝめ』四編・学者の職分を論ず・これを散ずれば明なりこれを集むれば暗なり私にありては智なり、官にありては愚なり。これを散ずれば明なり、これを集むれば暗なり。政府は衆智者の集まるところにして、一愚人の事を行なうものと言うべし。あに怪しまざるを得んや。畢竟その然る所以は、かの気風なるものに制せられて、人々みずから一個の働きを逞しゅうすること能わざるによりて致すところならんか。維新以来、政府にて学術、法律、商売等の道を興さんとして効験なきも、その病の原因はけだしここにあるなり。しかるにいま一時の術を用いて下民を御し、その知徳の進むを待つとは、威をもって人を文明に強ゆるものか、しからざれば欺きて善に帰せしむるの策なるべし。政府威を用うれば人民は偽をもってこれに応ぜん、政府欺を用うれば人民は容を作りてこれに従わんのみ。これを上策と言うべからず。たといその策は巧みなるも、文明の事実に施して益なかるべし。ゆえにいわく、世の文明を進むるには、ただ政府の力のみに依頼すべからざるなり。
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