塩鉄論 / 論儒篇
御史曰:「文學祖述仲尼、稱誦其德、以為自古及今、未之有也。然孔子修道魯、衛之間、教化洙、泗之上、弟子不為變、當世不為治、魯國之削滋甚。齊宣王褒儒尊學、孟軻、淳于髡之徒、受上大夫之祿、不任職而論國事、蓋齊稷下先生千有餘人。當此之時、非一公孫弘也。弱燕攻齊、長驅至臨淄、湣王遁逃、死於莒而不能救、王建禽於秦、與之俱虜而不能存。若此、儒者之安國尊君、未始有效也。」
新字:御史曰:「文学祖述仲尼、称誦其徳、以為自古及今、未之有也。然孔子修道魯、衛之間、教化洙、泗之上、弟子不為変、当世不為治、魯国之削滋甚。斉宣王褒儒尊学、孟軻、淳于髡之徒、受上大夫之禄、不任職而論国事、蓋斉稷下先生千有余人。当此之時、非一公孫弘也。弱燕攻斉、長駆至臨淄、湣王遁逃、死於莒而不能救、王建禽於秦、与之倶虜而不能存。若此、儒者之安国尊君、未始有効也。」
書き下し
御史曰く、文學は仲尼を祖述し、其の德を稱誦して、以為えらく古より今に及ぶまで、未だ之れ有らざるなり、と。然れども孔子は道を魯・衛の間に修め、教化を洙・泗の上にするも、弟子は變を為さず、當世は治を為さず、魯國の削らるること滋々甚だし。齊の宣王は儒を褒め學を尊び、孟軻・淳于髡の徒は、上大夫の祿を受け、職に任ぜずして國事を論ず、蓋し齊の稷下の先生は千有餘人なり。此の時に當たりて、一の公孫弘のみに非ざるなり。弱燕齊を攻め、長驅して臨淄に至り、湣王遁逃して、莒に死して救う能わず、王建は秦に禽にせられ、之と俱に虜となりて存する能わず。此くの若くんば、儒者の國を安んじ君を尊ぶは、未だ始めより效有らざるなり。
現代語訳
御史が言った。「文学は孔子を祖として述べ、その徳を称え、昔から今まで並ぶ者はいないと考えている。しかし孔子は魯と衛のあいだで道を修め、洙水と泗水のほとりで教化を行ったが、弟子たちは世を変えられず、当時の世は治まらず、魯の国が削り取られることはますますひどくなった。斉の宣王は儒者を褒め学問を尊び、孟軻や淳于髡らは上大夫の俸禄を受け、実務の職には就かずに国事を論じた。斉の稷下の学士は千余人もいた。この時代には、公孫弘が一人だけということはなかったのだ。それでも弱い燕が斉を攻めると、一気に都の臨淄まで攻め込まれ、湣王は逃げて莒で死に、誰も救えなかった。王建は秦に捕らえられ、彼らも一緒に虜になって国を保てなかった。こうしてみれば、儒者が国を安んじ君を尊くするという話には、はじめから効き目がなかったのだ」
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 孟子荀卿列伝これ有り」と。後に淳于髡見え、壹たび語りて連ぬること三日三夜にして倦むこと無し。恵王、卿相の位を以てこれを待たんと欲す、髡因りて謝して去る。是に於いて送るに安車駕駟、束帛に璧を加へ、黄金百鎰を以てす。終身仕へず。慎到は趙人。田駢・接子は斉人。環淵は楚人。皆黄老道徳の術を学び、因りてその指意を発明して序す。故に慎到は十二論を著し、環淵は上下篇を著し、而して田駢・接子は皆論ずる所有り。騶奭なる者は、斉の諸騶子にして、また頗る騶衍の術を采りて以て文を紀す。是に於いて斉王これを嘉し、淳于髡より以下の如き、皆命じて列大夫と曰ひ、為に第を康荘の衢に開き、高門大屋、これを尊寵す。天下諸侯の賓客に覧せて、斉は能く天下の賢士を致すと言ふなり。
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『童子問』卷下問ふ、何ぞ古昔は人材の多くして、後世は之れ尠きや、と。曰く、一なれば則ち達し、岐多ければ則ち迷ふ。後世の人材を成すこと能はざる者は、其の岐多きが為なり。夫れ学なる者は、徳を成し材を達する所以なり。学者内に名利の膠無く、外に他事の擾無く、此に衣食し、此に寝処し、立てば則ち其の前に参ずるを見、輿に在れば則ち其の衡に倚るを見、積みて又積み、老の将に至らんとするを知らず、心心念念、此に専一ならば、則ち何ぞ徳を成し材を達せざることの之れ有らん。舜も人なり、我も亦人なり。堯舜の事業、孔孟の学術と雖も、亦豈に遠からんや。昔韓幹馬を画くことを好み、見る所の馬、皆其の師に非ざるは莫し。夫れ然る後、能く其の妙を造し、古今に冠絶す。古人の道芸に於けるや、皆然り。後の学者は則ち然らず。己の期する所、父兄朋友の責むる所、利名の両者に過ぎず。有用の事は講ぜず、有用の書は読まず。無益の章句を守り、無益の空文に鶩せ、無益の故事を記し、一切時好に狗ひ、名誉を邀へ、旁蹊多岐にして、志を用ふること専らならず。而して大学問・大事業に於ては、則ち之を度外に付す。藉令数十巻の著述有りて世に行はるるも、亦児戯のみ。行々将に澌滅に就かんとす。何の益かあらん。其の求むる所の名と利とも、亦皆児女子の仰歎に供するのみ。何の人材を成す所あらんや。少しく智慮有る者は、其れ取捨する所を知らざるべけんや。
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『政談』諸役人に器量を選ふ事人の気質様々なる故才智の筋も様々となるによりて、人に得手不得手あること其の品々様々なり、余りに人々様々に変はることなれは、其の今日其の人に取扱はすることの上にて、うとけすき合はせに合ふたる才はなきものなる故、少々の有余不足ありて、少々の仕落もなくて叶はさることなり、少しの仕落を厭ふて大なる功を立て得されは咎はなけれとも功なし、功なくんは何の益かあるへき、大なる所に功あらは少しの仕落は少しのことなり、苦しからさることなり、
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『講孟余話』盡心上 第二十九章且つ曲芸を以て見るべし。書画を学ぶ者は、終身書画を学びて愈々己の不足を知る。若し「我は王羲之なり、我は顧愷之なり」と云ひて、已に其の極処に至るとし、廃絶せば、妄人と云ふべし。故に泉に及ぶと云ひても、学問の極処に至れば事已に畢ると云ふにはあらず。学記にも「学びて然る後に其の足らざるを知る」と云へり。学べば学ぶ程、益々高く益々堅きの味を知るなり。然れども井を掘るは水を得るが為なり、学を講ずるは道を得るが為なり。水を得ざれば、掘ること深しと云へども、井とするに足らず。道を得ざれば、講ずること勤むと云へども、学とするに足らず。因りて知る、井は水の多少に在りて、掘るの浅深に在らず。学は道の得否に在りて、勤むるの厚薄に在らざることを。
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『政談』學問の事偖御旗本の学問あるをば、其の向寄の儒者ともより若年寄御番頭へ申さすへし、尤も学問なき人の贔負にて有と云やうなることも有べけれとも、兎角芸の事は其の芸者の方より申し立つるを証拠にせざれば知るへきやうなきことなり、偖学問ある人を撰みて御役人に仰付らるゝやうにもあらば、学問ははやるべきことなり、されども学問なく上も知行高と、家筋にて御役人にはなることと人々覚え居ることなる故気のつまることはせね道理なり、古は学問なければ公辺の勤めもならぬやうに徳を立て置きたる故、自から武家も学問を仕たると見えたり、源頼義大江匡房と書翰往来のこと本朝文粋に之あり、頼義奥州退治の時上表せられたることなどあり、又義家丹波の椽の時新田開発の下し文を先年見たり、共に仲々かたき文章なり、当時は学問なくても御奉公の差支はなきこと故、気のつまることをせぬ筈のこと也、
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