塩鉄論 / 憂邊篇
文學曰:「明者因時而變、知者隨世而制。孔子曰:『麻冕、禮也、今也純、儉、吾從眾。』故聖人上賢不離古、順俗而不偏宜。魯定公序昭穆、順祖禰、昭公廢卿士、以省事節用、不可謂變祖之所為、而改父之道也?二世充大阿房以崇緒、趙高增累秦法以廣威、而未可謂忠臣孝子也。」
新字:文学曰:「明者因時而変、知者随世而制。孔子曰:『麻冕、礼也、今也純、倹、吾従衆。』故聖人上賢不離古、順俗而不偏宜。魯定公序昭穆、順祖祢、昭公廃卿士、以省事節用、不可謂変祖之所為、而改父之道也?二世充大阿房以崇緒、趙高增累秦法以広威、而未可謂忠臣孝子也。」
書き下し
文學曰く、明者は時に因りて變じ、知者は世に隨いて制す。孔子曰く、『麻冕は禮なり、今や純なるは儉なり、吾は眾に從わん』と。故に聖人は賢を上びて古を離れず、俗に順いて宜を偏らず。魯の定公は昭穆を序し、祖禰に順う、昭公は卿士を廢し、以て事を省き用を節す、祖の為す所を變じて、父の道を改むと謂うべからざるか。二世は大いに阿房を充たして以て緒を崇くし、趙高は秦法を增累して以て威を廣む、而も未だ忠臣孝子と謂うべからざるなり。
現代語訳
文学が言った。「聡明な者は時に応じて変え、知恵ある者は世に従って制度を定める。孔子は言った、麻の冠が礼の定めだが、いまは絹を用いる。そのほうが倹約だから、私は世間に従おう、と。だから聖人は賢者を尊びながら古を離れず、風俗に従いながら適切さを偏らせない。魯の定公は祖先の順序を整えて先祖の定めに従い、昭公は卿士の職を廃して事務を減らし費用を節約した。これを、祖先のしたことを変え父の道を改めたと言えるだろうか。二世皇帝は阿房宮を大いに充実させて先代の事業を高くし、趙高は秦の法を積み増して威勢を広げた。それでもなお、彼らを忠臣孝子と呼ぶことはできない」
解説
この章句が説くこと
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