塩鉄論 / 論儒篇
文學曰:「天下不平、庶國不寧、明王之憂也。上無天子、下無方伯、天下煩亂、賢聖之憂也。是以堯憂洪水、伊尹憂民、管仲束縛、孔子周流、憂百姓之禍而欲安其危也。是以負鼎俎、囚拘、匍匐以救之。故追亡者趨、拯溺者濡。今民陷溝壑、雖欲無濡、豈得已哉?」御史默不對。
新字:文学曰:「天下不平、庶国不寧、明王之憂也。上無天子、下無方伯、天下煩乱、賢聖之憂也。是以堯憂洪水、伊尹憂民、管仲束縛、孔子周流、憂百姓之禍而欲安其危也。是以負鼎俎、囚拘、匍匐以救之。故追亡者趨、拯溺者濡。今民陥溝壑、雖欲無濡、豈得已哉?」御史黙不対。
書き下し
文學曰く、天下平らかならず、庶國寧からざるは、明王の憂いなり。上に天子無く、下に方伯無く、天下煩亂するは、賢聖の憂いなり。是を以て堯は洪水を憂え、伊尹は民を憂え、管仲は束縛せられ、孔子は周流す、百姓の禍を憂えて其の危きを安んぜんと欲すればなり。是を以て鼎俎を負い、囚拘せられ、匍匐して以て之を救う。故に亡を追う者は趨り、溺るるを拯う者は濡る。今民は溝壑に陷る、濡るる無からんと欲すと雖も、豈に已むを得んや。/御史默して對えず。
現代語訳
文学が言った。「天下が平らかでなく、多くの国が安らかでないのは、明君の憂いである。上に天子がなく、下に諸侯の長がなく、天下が乱れているのは、賢者や聖人の憂いである。だから堯は洪水を憂え、伊尹は民を憂え、管仲は縄目にかかり、孔子は諸国をめぐり歩いた。民の禍いを憂えて、その危うさを安んじようとしたからだ。だから伊尹は鼎と俎を背負って料理人になり、管仲は囚われ、孔子は這うようにして人々を救おうとした。逃げた者を追う者は走らねばならず、溺れる者を救う者は自分も濡れる。いま民は溝や谷底に落ちている。濡れずに済ませたいと思っても、どうしてそうしていられようか」。御史は黙って答えなかった。
解説
資格を問う批判への、見事な答えです。孔子が佞臣を頼ったこと、弟子が季氏に仕えたことを、否定も弁解もしませんでした。代わりにこう言う——溺れている人を助ける者は、自分も濡れる。汚れずに救うことはできない、と。前段で自分たちが語った「道を枉げるくらいなら退く」との緊張を、この一言で引き受けています。退くべき時と、濡れてでも入るべき時がある。原則は場合によって使い分けるのではなく、何のために枉げるのかで分かれる。御史はここで黙りました。
この章句が説くこと
溺るるを拯う者は濡る亡を追う者は趨る百姓の禍を憂えて其の危きを安んず覚悟救済当事者
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