葉隠 / 聞書第二
智慧ある人は實も不實も智慧にて仕組み、理をつけて仕迫ると思ふものなり。何事も實にてなければ、のうぢなきものなりと。
新字:智慧ある人は実も不実も智慧にて仕組み、理をつけて仕迫ると思ふものなり。何事も実にてなければ、のうぢなきものなりと。
書き下し
智慧ある人は実も不実も智慧にて仕組み、理をつけて仕迫(しせま)ると思うものなり。何事も実にてなければ、のうぢ(効験)なきものなりと。
現代語訳
何事も真心からでなければ効き目がない。智慧のある人は、かえって智慧のために害を招く。智慧のある人は、真実であれ不実であれ智慧で辻褄を合わせ、理屈をつけて押し通そうとするものだ。だが何事も、真実からのものでなければ、効き目はないのである。
解説
頭の切れる人ほど、理屈で物事を巧みに組み立て、真偽にかかわらず言い分を通そうとする。しかしそうした小手先の智慧では、本当の効き目は生まれない――常朝は「真実(まこと)」こそが力の源だと説きます。いくら論理が整っていても、真心のこもらないものは人を動かさない。むしろ智慧が過ぎると、その巧みさ自体が害になるという逆説です。現代でも、巧みな説明や理屈が、誠実さの欠如を覆い隠せない場面は多い。最後に人を動かすのは技術ではなく真心だという、実質を重んじる普遍的な教えとして読めます。
この章句が説くこと
葉隠真実誠小手先の智慧実質武士道
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