法句経 / 第二十五 比丘の部 三六五・三六六
三六五 己の所得に不足を懷く可らず、他を羨まざれ、他を羨む比丘は心の安定を得じ。 三六六 比丘あり、己の所得少なきも其の所得に於て不足を懷かざれば諸神尚ほ此の淨命無懈怠の者を讚す。
新字:三六五 己の所得に不足を懐く可らず、他を羨まざれ、他を羨む比丘は心の安定を得じ。 三六六 比丘あり、己の所得少なきも其の所得に於て不足を懐かざれば諸神尚ほ此の浄命無懈怠の者を讃す。
書き下し
三六五 己の所得に不足を懐く可らず、他を羨まざれ、他を羨む比丘は心の安定を得じ。 三六六 比丘あり、己の所得少なきも其の所得に於て不足を懐かざれば諸神尚ほ此の浄命無懈怠の者を讃す。
現代語訳
自分の得たものに不足を抱いてはならない。他人を羨むな。他人を羨む比丘は心の安定を得られない。比丘があって、自分の得たものが少なくても、その得たものについて不足を抱かないなら、神々でさえこの清らかに生き怠りない者を讃える。
解説
比較についての二偈である。三六五は「己の所得に不足を懷く可らず、他を羨まざれ」と二つを並べる。自分の取り分に不満を持つことと、他人を羨むことは、同じ一つの動きの表と裏だ。そして結論は道徳ではなく事実として書かれる——「他を羨む比丘は心の安定を得じ」。羨んでいる間は落ち着かない、というだけのことである。三六六が付け加えるのは、少ないままでよいという話ではない点だ。「己の所得少なきも其の所得に於て不足を懷かざれば」——少ないという事実は変わらない。変わるのは、それを不足と感じるかどうかである。しかもそれを讃えるのが神々だという。人が見ていなくても、という含みが効いている。
この章句が説くこと
不足を懐く可らず他を羨むな心の安定比較
関連する章句
-
論語・公冶長篇子、子貢に謂いて曰く、「女と回と孰れか愈れる。」対えて曰く、「賜や何ぞ敢えて回を望まん。回や一を聞きて以て十を知る、賜や一を聞きて以て二を知る。」子曰く、「如かざるなり。吾と女と、如かざるなり。」
-
『墨子』經說下見ると見ざるとは離る。一と二とは相い盈たさず。廣と循と堅白となり。舉げて重からざるは箴と與にせず、力の任に非ざるなり。握る者の倍を為すは、智の任に非ざるなり。耳目の若し。異。木と夜と孰れか長き。智と粟と孰れか多き。爵と親と行と賈と、四者孰れか貴き。麋と霍と孰れか髙き。麋と霍と孰れか霍なる。虭と瑟と孰れか瑟なる。偏。倶に一にして變ずる無し。假。假は必ず非なり、而る後に假なり。狗の霍を假るは、猶お霍を氏とするがごときなり。物。或いは之を傷るは、然るなり。之を見るは、智なり。之を吉するは、智らしむるなり。疑。蓬、務を為せば則ち士なり。牛廬を為る者、夏、寒きは、蓬なり。之を舉ぐれば則ち輕く、之を廢すれば則ち重きは、力有るに非ざるなり。沛、削に従うは、巧に非ざるなり。石と羽との若きは、楯なり。鬬う者の敝るるや、飲酒を以てす。曰中を以てするが若し。是れ智る可からざるなり、愚なり。智なるか、已を以て然りと為すか。愚なり。
-
『学問のすゝめ』十二編・人の品行は高尚ならざるべからざるの論・事物の有様を比較して上流に向かいしからばすなわち、人の見識を高尚にして、その品行を提起するの法いかがすべきや。その要訣は事物の有様を比較して上流に向かい、みずから満足することなきの一事にあり。ただし有様を比較するとはただ一事一物を比較するにあらず、この一体の有様と、かの一体の有様とを並べて、双方の得失を残らず察せざるべからず。譬えば今、少年の生徒、酒色に溺るるの沙汰もなくして謹慎勉強すれば、父兄・長老に咎めらるることなく、あるいは得意の色をなすべきに似たれども、その得色はただ他の無頼生に比較してなすべき得色のみ。謹慎勉強は人類の常なり、これを賞するに足らず、人生の約束は別にまた高きものなかるべからず。広く古今の人物を計え、誰に比較して誰の功業に等しきものをなさばこれに満足すべきや。必ず上流の人物に向かわざるべからず。あるいは我に一得あるも彼に二得あるときは、我はその一得に安んずるの理なし。いわんや後進は先進に優るべき約束なれば、古を空しゅうして比較すべき人物なきにおいてをや。今人の職分は大にして重しと言うべし。
-
『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず基督や釈迦は始めより宗教家として世に立った人であるに反し、孔子は宗教をもって世に臨んだ人でないように思われる。基督や釈迦とは全然その成立を異にしたものである。ことに孔子の在世時代における支那の風習は、何でも義務を先にし、権利を後にする傾向を帯びた時であった。かくのごとき空気の中に成長し来った孔子をもって、二千年後の今日、全く思想を異にした基督に比するは、既に比較すべからざるものを比較するのであるから、この議論は最初よりその根本を誤ったものと言うべく、両者に相違を生ずることはもとより当然の結果たらざるを得ないのである。しからば孔子教には全然権利思想を欠いているであろうか。以下少しく余が所見を披瀝して世の蒙を啓きたいと思う。
-
『学問のすゝめ』十二編・人の品行は高尚ならざるべからざるの論・盲人に向かいて誇るがごとししかるに今わずかに謹慎勉強の一事をもって人類生涯の事となすべきや。思わざるのはなはだしきものなり。人として酒色に溺るる者はこれを非常の怪物と言うべきのみ。この怪物に比較して満足する者は、これを譬えば双眼を具するをもって得意となし、盲人に向かいて誇るがごとし。いたずらに愚を表するに足るのみ。ゆえに酒色云々の談をなして、あるいはこれを論破し、あるいはこれを是非するの間は、到底諸論の賤しきものと言わざるを得ず。人の品行少しく進むときはこれらの醜談はすでにすでに経過し了して、言に発するも人に厭わるるに至るべきはずなり。
-
『武士道』第十六章 武士道の命脈・諸邦の偉力ある人物を結合する要素然るに、もし果して各個国民性格の特質欠点にして殊別の伝産と称すべきものあらんには、此説大に傾聴するに足るものあるべし。ただ惜むらくは、此種の杓子定規論たる、ル・ボンの未だ其著に筆を下すに及ばずして、つとにテオドル・ヴァイツ及びヒュー・ムレー等、人類学者の論破して復た余蘊なきものなることを。武士道の浸潤したる多種の道徳を考究して、之れが比較説明を欧洲の典拠に求むるに当り、武士道は毫も殊有の伝産たるべき特種の性格を有するものに非ざるを認めたり。もとより諸徳性の集成は全然特殊の形観を呈す。而して此集成は、即ちエマソンが名づけて『凡百の大勢力の分子を成して集合する複雑なる結果なり』と云ふものなり。されどコンコルドの哲人はル・ボンに異なり、此れを以て一種族、一国民の特殊伝産となさず、却つて之を称して『是れぞ諸邦の最偉力ある人物を結合して、相互の知識感情を疏通せしむる要素なり』となす。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る