大学或問 / 『大学或問』蓄えと宰相で変事に備える
(問)凶年にて行ひ難しといひて、居ながら變を待んよりは、變に通ずる政あるべきか、 (答)是も諸大名在國にて米遣ひと成、米を錢の直段のごとく定て、金銀米去りきらひなく取遣りし、前に論ずるごとく借金を延し、酒屋を止、江戶人ずくなに成ていそぐ事なくば、米船の徃來もすくなく、彼是に付米のすたり少きやうにせば、少しは補ひには成べきか、其時の變計がたければかねて言がたし、米の直段の定もなし、凶年に赴きなば世間の勢違ひて、五拾錢目を中分といひしも五拾錢目を中分とせでは成ざる事有べし、いつとても八九月より政あらば變をすくふ事もなるべけれども、兎角する間に冬も半に成なば、たとひ上に御心付給ふとも行ひがたかるべし、况や凶年つゞき米七八拾錢目にも上りなば、先年の八九拾錢目の時とは違ひて、心もとなき勢ひなり、返す〳〵も近年の豐年は惜き事なり、五六年の間の三拾錢目餘四拾錢目までの米を、五拾錢目六拾錢目の間に定て餘を積置給はゞ、たとひ凶年三五年づゞくとも七八拾錢目の高直には上るべからず、是滿を貯へ不足を補ふの人才にして、造化を助る道なり、前にも時務の行はるべき節、度々むなしかりし故に、旗本も大名も家中も百姓も町人も此の如く惣つまりに成て、浪人出家其外の遊民もかくのごとく多くは成たり、漢唐宋明の代三代のやうに聖賢の君もなかりしかども、三百年四百年つゞきたると、宰相の職を置て天下の賢才を用ひ、時務を行ひて當然の式ありし故なり、宰相は本才の人なり、本才は天下第一の才なれども、德なければ用をなさず、德は必しも聖賢の神德ならざれども、諫をいれ昌言をよろこぶを宰相の德とするものなり、
新字:(問)凶年にて行ひ難しといひて、居ながら変を待んよりは、変に通ずる政あるべきか、 (答)是も諸大名在国にて米遣ひと成、米を銭の直段のごとく定て、金銀米去りきらひなく取遣りし、前に論ずるごとく借金を延し、酒屋を止、江戸人ずくなに成ていそぐ事なくば、米船の往来もすくなく、彼是に付米のすたり少きやうにせば、少しは補ひには成べきか、其時の変計がたければかねて言がたし、米の直段の定もなし、凶年に赴きなば世間の勢違ひて、五拾銭目を中分といひしも五拾銭目を中分とせでは成ざる事有べし、いつとても八九月より政あらば変をすくふ事もなるべけれども、兎角する間に冬も半に成なば、たとひ上に御心付給ふとも行ひがたかるべし、況や凶年つゞき米七八拾銭目にも上りなば、先年の八九拾銭目の時とは違ひて、心もとなき勢ひなり、返す〳〵も近年の豊年は惜き事なり、五六年の間の三拾銭目余四拾銭目までの米を、五拾銭目六拾銭目の間に定て余を積置給はゞ、たとひ凶年三五年づゞくとも七八拾銭目の高直には上るべからず、是満を貯へ不足を補ふの人才にして、造化を助る道なり、前にも時務の行はるべき節、度々むなしかりし故に、旗本も大名も家中も百姓も町人も此の如く惣つまりに成て、浪人出家其外の遊民もかくのごとく多くは成たり、漢唐宋明の代三代のやうに聖賢の君もなかりしかども、三百年四百年つゞきたると、宰相の職を置て天下の賢才を用ひ、時務を行ひて当然の式ありし故なり、宰相は本才の人なり、本才は天下第一の才なれども、徳なければ用をなさず、徳は必しも聖賢の神徳ならざれども、諫をいれ昌言をよろこぶを宰相の徳とするものなり、
書き下し
(問)凶年にて行ひ難しといひて、居ながら變を待んよりは、變に通ずる政あるべきか、 (答)是も諸大名在國にて米遣ひと成、米を錢の直段のごとく定て、金銀米去りきらひなく取遣りし、前に論ずるごとく借金を延し、酒屋を止、江戶人ずくなに成ていそぐ事なくば、米船の徃來もすくなく、彼是に付米のすたり少きやうにせば、少しは補ひには成べきか、其時の變計がたければかねて言がたし、米の直段の定もなし、凶年に赴きなば世間の勢違ひて、五拾錢目を中分といひしも五拾錢目を中分とせでは成ざる事有べし、いつとても八九月より政あらば變をすくふ事もなるべけれども、兎角する間に冬も半に成なば、たとひ上に御心付給ふとも行ひがたかるべし、况や凶年つゞき米七八拾錢目にも上りなば、先年の八九拾錢目の時とは違ひて、心もとなき勢ひなり、返す〳〵も近年の豐年は惜き事なり、五六年の間の三拾錢目餘四拾錢目までの米を、五拾錢目六拾錢目の間に定て餘を積置給はゞ、たとひ凶年三五年づゞくとも七八拾錢目の高直には上るべからず、是滿を貯へ不足を補ふの人才にして、造化を助る道なり、前にも時務の行はるべき節、度々むなしかりし故に、旗本も大名も家中も百姓も町人も此の如く惣つまりに成て、浪人出家其外の遊民もかくのごとく多くは成たり、漢唐宋明の代三代のやうに聖賢の君もなかりしかども、三百年四百年つゞきたると、宰相の職を置て天下の賢才を用ひ、時務を行ひて當然の式ありし故なり、宰相は本才の人なり、本才は天下第一の才なれども、德なければ用をなさず、德は必しも聖賢の神德ならざれども、諫をいれ昌言をよろこぶを宰相の德とするものなり、
現代語訳
問う。凶年なので行いがたいといって、居ながら変事を待つよりは、変事に対応できる政治があるのではないか。 答える。これも、諸大名が在国して米で費用をまかない、米を銭の値段のように定め、金銀と米を嫌わず取り交わし、前に論じたように借金の返済を延ばし、酒屋を止め、江戸の人数を少なくして急ぐことがなければ、米船の往来も少なくなり、あれこれの点で米の損失が少なくなるようにすれば、少しは補いにはなるだろうか。その時の変事は予測できないので、前もって言いがたい。米の値段の定めもない。凶年に向かえば世間の勢いが違うので、五十匁を中程度と言ったが、五十匁を中程度としなければならないこともあるだろう。いつであっても、八、九月から政治を行えば変事を救うこともできるだろうが、あれこれするうちに冬も半ばになったなら、たとえ上の方がお気づきになっても、行いがたいだろう。まして凶年が続き、米が七、八十匁にも上がったなら、先年の八、九十匁のときとは違って、心もとない勢いである。返す返すも、近年の豊年は惜しいことだ。五、六年の間の、三十匁余りから四十匁までの米を、五十匁から六十匁の間に定めて、余りを積み置かれたなら、たとえ凶年が三年、五年続いても、七、八十匁の高値には上がらないだろう。これは、満ちたものを貯えて不足を補う人材の仕事であり、造化を助ける道である。前にも、時務が行われるべき時が、たびたび空しく過ぎたために、旗本も大名も家中も百姓も町人も、このようにみな行き詰まり、浪人・出家・その他の遊民もこのように多くなった。漢・唐・宋・明の代が、三代のような聖賢の君主がいなかったにもかかわらず、三百年、四百年と続いたのは、宰相の職を置いて天下の賢才を用い、時務を行って、当然の式があったからである。宰相は本才の人である。本才は天下第一の才であるが、徳がなければ用をなさない。徳は必ずしも聖賢の神のような徳ではないが、諫めを入れ、正しい言葉を喜ぶことを、宰相の徳とするものである。
解説

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