長短経 / 掩発
遂到南郡、士仁、糜芳皆降。蒙入據城、盡得侯將士家屬、皆撫慰、約令軍中不得干歴人家、道不拾遺〔昔秦伯見襲鄭之利、不顧崤函之敗、吳王矜伐齊之功、而忘姑蘇之禍。故曰、「不能盡知用兵之害者、則不能盡知用兵之利。」此之謂矣。《經》曰、「役諸侯者以業。」語曰、「因其强而强之、敵乃可折。」闕侯討樊、雖不被人計、亦自役自强者也。〕侯還、在道路、數使人與蒙相聞、蒙厚遇其使、使周旋城中、家家致問、或手書示信。
新字:遂到南郡、士仁、糜芳皆降。蒙入拠城、尽得侯将士家属、皆撫慰、約令軍中不得干歴人家、道不拾遺〔昔秦伯見襲鄭之利、不顧崤函之敗、呉王矜伐斉之功、而忘姑蘇之禍。故曰、「不能尽知用兵之害者、則不能尽知用兵之利。」此之謂矣。《経》曰、「役諸侯者以業。」語曰、「因其強而強之、敵乃可折。」闕侯討樊、雖不被人計、亦自役自強者也。〕侯還、在道路、数使人与蒙相聞、蒙厚遇其使、使周旋城中、家家致問、或手書示信。
書き下し
遂に南郡に到る。士仁・糜芳皆降る。蒙入りて城に拠り、尽く侯の将士の家属を得て、皆撫慰し、軍中に約令して人家を干歴するを得ざらしむ。道に遺ちたるを拾わず〔昔、秦伯は鄭を襲うの利を見て、崤函の敗を顧みず。呉王は斉を伐つの功を矜りて、姑蘇の禍を忘る。故に曰く「尽く兵を用うるの害を知らざる者は、則ち尽く兵を用うるの利を知ること能わず」と。此の謂いなり。経に曰く「諸侯を役する者は業を以てす」と。語に曰く「其の強きに因りて之を強くすれば、敵乃ち折るべし」と。関侯の樊を討つは、人に計られずと雖も、亦た自ら役し自ら強くする者なり〕。侯還りて、道路に在り、数々人をして蒙と相聞せしむ。蒙厚く其の使いを遇し、城中に周旋せしめ、家家に致問し、或いは手書して信を示す。
現代語訳
そのまま南郡に着くと、士仁と糜芳は皆降伏した。呂蒙は城に入り、関羽の将兵の家族をすべて手中にし、皆を慰め、軍中に民家に押し入ってはならないと命じた。道に落ちている物も拾わなかった〔昔、秦伯は鄭を襲う利を見て、崤函での敗北を顧みなかった。呉王は斉を伐った功を誇って、姑蘇の禍を忘れた。だから「兵を用いる害を知り尽くさない者は、兵を用いる利を知り尽くすことができない」と言う。このことである。兵法書に「諸侯を働かせるには事業を与える」とあり、ことわざに「相手の強さに乗じてさらに強がらせれば、敵はやがて折れる」とある。関羽が樊を討ったのは、人の計略にかかったわけではないが、自ら働きすぎ自ら強がったのである〕。関羽は引き返す途中、何度も人をやって呂蒙と連絡を取らせた。呂蒙はその使者を手厚くもてなし、城の中を巡らせて家ごとに見舞わせ、ある者には家族の手紙を持たせて無事の証とした。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『長短経』掩発呂蒙、西のかた陸口に屯す。関侯樊を討ち、兵を留めて公安・南郡に備う。蒙上疏して曰く「関侯樊を討ちて多く備兵を留むるは、必ず蒙の其の後ろを図らんことを恐るるが故なり。蒙は常に病有り。乞う、衆を分かちて建鄴に還り、病を治むるを以て名と為さん。某之を聞かば、必ず備兵を徹し、尽く襄陽に赴かん。大軍江に浮かび、昼夜馳せ上りて、其の空虚を襲わば、則ち南郡取るべくして、某擒にすべし」と。遂に病篤しと称す。権乃ち露檄して蒙を召す。侯果たして之を信じ、稍く兵を徹して樊に赴く。権之を聞き、遂に行く。先ず蒙を遣わして前に在らしめ、其の精兵を□□の中に伏せ、白衣をして櫓を揺らし、商賈の服を作さしめ、昼夜兼行して、侯の置く所の江辺の屯候に至り、尽く収縛す。是の故に羽は聞知せず〔太公曰く「偽りて使者と称するは、糧食を絶つ所以なり。令・号を謬りて敵と服を同じくする者は、走北に備うる所以なり」と。此に由りて之を言えば、衣服・号令の中、審らかにせざるべからざるなり〕。
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『長短経』三国権遂に病篤しと称す。権乃ち露檄して蒙を召し還し、陰かに与に計を図る。侯果たして之を信じ、稍く兵を徹して樊に赴く。権遂に行き、蒙をして前に在らしめ、其の精兵を□□の中に伏せ、白衣をして櫓を揺らし商賈の服を作さしめ、昼夜兼行して、羽の置く所の江辺の屯候に至り、尽く之を縛す。是の故に侯は聞知せず。蒙入りて城に拠り、尽く侯及び将士の家属を得て、皆撫慰し、軍に約令して人家を干歴し、求取する所有るを得ざらしむ。侯還りて道路に在り、数々人をして蒙と相聞せしむ。蒙輒ち厚く其の使いを遇す。侯の使いの人還り、咸な家門の恙無く、待たるること平時に過ぐるを知る。故に侯の吏士に闘心無く、皆侯を委てて降り、即ち父子俱に獲らる。
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『長短経』三国権其の後、呉の孫権、関侯を襲いて荊州を取る。〔范曄曰く「劉備、関侯をして荊州を鎮守せしむ。呉の将呂蒙、漢昌太守を拝し、関侯と土を分かちて境を接す。侯の梟雄にして兼并の心有り、且つ上流に居るを知り、其の勢い久しくし難し。蒙乃ち密かに計策を陳べて曰く『今、征虜をして南郡を守らしめ、潘璋をして遊兵万人を将いて江を循りて上下し、敵の所在に応ぜしむ。蒙は国家の為に前んで襄陽に拠らん。此くの如くんば、何ぞ操を憂えん。何ぞ侯に頼らん』と。将に之を図らんとす。会々侯、樊を討ち、兵を留めて将に南郡に備えんとす。蒙上疏して曰く『某、樊を討ちて多く備兵を留むるは、必ず蒙の其の後ろを図らんことを恐るるが故なり。蒙は常に病有り。乞う、衆を分かちて建業に還り、病を治するを以て名と為さん。某之を聞かば、必ず備兵を徹し、尽く襄陽に赴かん。大軍江に浮かび、昼夜駆け上りて、其の空虚を襲わば、則ち南郡下すべくして、某擒にすべきなり』と。
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『長短経』掩発侯の使い人還り、私かに相参訊し、咸な家間の恙無く、相待つこと平時に過ぐるを知る。故に侯の士卒闘心無し。権至りて侯を獲、遂に荊州を定む。此れ掩発の変なり。故に曰く「始めは処女の如く、敵人戸を開く。後には脱兎の如く、敵距ぐに及ばず」と。此の謂いなり。
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『長短経』三国権初め、孫権の侯を討つや、使いを遣わして魏に報じて云う「関某を討ちて自ら效さんと欲す。乞う、漏露せざれ。某をして備え有らしめん」と。群臣咸な之を密にするは是れ宜しと言う。董昭曰く「軍事は権を尚び、宜しきに合うを期す。宜しく其の事を露すべし。某、権の上ると聞かば、即ち当に還りて其の城を護るべし。囲み速やかに解くを得ば、便ち其の利を獲ん。両賊をして相持せしめ、以て其の弊を待つべし。若し密にして露さず、権をして志を得しむるは、計の上に非ざるなり」と。乃ち書を囲中及び侯の屯内に射しむ。侯猶予して未だ去らず。陸遜至りて、江陵を破る。侯走りて臨沮に至り、呉の将潘璋の殺す所と為るなり。〕
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『長短経』格形初め、関侯楚の襄陽を囲む。曹操は漢帝の許に在りて、賊に近きを以て、都を徙さんと欲す。司馬宣王及び蒋済、曹操に説きて曰く「劉備・孫権は、外は親しく内は疎し。関侯の志を得るは、権必ず願わざるなり。人を遣わして其の後ろを躡まんことを勧め、江南を割きて以て権を封ずるを許さば、則ち楚の囲み自ら解けん」と。曹操之に従い、侯遂に擒にせらる。此れ其の愛する所を攻むれば、則ち動くを言うなり。是を以て善く戦う者は、智名無く、勇功無し。白刃の前に争わず、已に失いたるの後に備えず。此の謂いなり。