長短経 / 格形
初、關侯圍楚襄陽、曹操以漢帝在許、近賊、欲徙都。司馬宣王及蔣濟説曹操曰、「劉備、孫權、外親内疎。關侯得志、權必不願也。可遣人勸躡其後、許割江南以封權、則楚圍自解。」曹操從之、侯遂見擒。此言攻其所愛、則動矣。是以善戰者、無知名、無勇功。不争白刃之前、不備已失之後。此之謂矣。
新字:初、関侯囲楚襄陽、曹操以漢帝在許、近賊、欲徙都。司馬宣王及蔣済説曹操曰、「劉備、孫権、外親内疎。関侯得志、権必不願也。可遣人勧躡其後、許割江南以封権、則楚囲自解。」曹操従之、侯遂見擒。此言攻其所愛、則動矣。是以善戦者、無知名、無勇功。不争白刃之前、不備已失之後。此之謂矣。
書き下し
初め、関侯楚の襄陽を囲む。曹操は漢帝の許に在りて、賊に近きを以て、都を徙さんと欲す。司馬宣王及び蒋済、曹操に説きて曰く「劉備・孫権は、外は親しく内は疎し。関侯の志を得るは、権必ず願わざるなり。人を遣わして其の後ろを躡まんことを勧め、江南を割きて以て権を封ずるを許さば、則ち楚の囲み自ら解けん」と。曹操之に従い、侯遂に擒にせらる。此れ其の愛する所を攻むれば、則ち動くを言うなり。是を以て善く戦う者は、智名無く、勇功無し。白刃の前に争わず、已に失いたるの後に備えず。此の謂いなり。
現代語訳
はじめ関羽が襄陽を囲んだとき、曹操は漢の献帝のいる許都が賊に近いので、都を移そうとした。司馬懿と蒋済は曹操に説いた。「劉備と孫権は、表向きは親しくても内心は疎遠です。関羽が思いどおりになるのは、孫権は決して望んでいません。孫権に人を遣わして関羽の背後を突くよう勧め、江南を割いて孫権を封じると約束すれば、襄陽の囲みは自然に解けるでしょう」。曹操はこれに従い、関羽はついに捕らえられた。これは、相手が大切にしているものを攻めれば相手は動く、ということを言っている。だから戦上手には、知恵の名声も勇敢な手柄もない。白刃の前で争わず、失った後に備えるのでもない。このことである。
解説
関羽に攻められて遷都まで考えた曹操に、司馬懿は、自分で戦わずに孫権を動かせと勧めました。孫権は同盟者の劉備側が強くなりすぎることを嫌っている。そこを突いて、関羽の背後を襲わせる。孫権の本音という、相手陣営が大切にしている利害を動かしたのです。格形の篇は、戦上手には派手な知恵の名声も勇敢な手柄もないと結ぶ。刃を交える前に、相手の利害を動かして勝負を決めてしまうからです。
この章句が説くこと
格形司馬懿関羽孫権利害のずれ戦わずして勝つ
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