長短経 / 掩発
侯使人還、私相參訊、咸知家間無恙、相待過于平時、故侯士卒無鬭心。權至獲侯遂定荆州。此掩發之變。故曰、「始如處女、敵人開戸後如脱兔、敵不及距。」此之謂矣。
新字:侯使人還、私相参訊、咸知家間無恙、相待過于平時、故侯士卒無闘心。権至獲侯遂定荆州。此掩発之変。故曰、「始如処女、敵人開戸後如脱兔、敵不及距。」此之謂矣。
書き下し
侯の使い人還り、私かに相参訊し、咸な家間の恙無く、相待つこと平時に過ぐるを知る。故に侯の士卒闘心無し。権至りて侯を獲、遂に荊州を定む。此れ掩発の変なり。故に曰く「始めは処女の如く、敵人戸を開く。後には脱兎の如く、敵距ぐに及ばず」と。此の謂いなり。
現代語訳
関羽の使者が戻ると、兵たちはひそかに問い合わせ、皆、家族が無事で、普段以上に大切に扱われていることを知った。だから関羽の兵は戦う心をなくした。孫権がやって来て関羽を捕らえ、ついに荊州を平定した。これが不意を突いて一気に発する変化である。だから孫子は「はじめは処女のようにおとなしくして敵に戸を開かせ、後には逃げる兎のように素早く動いて、敵が防ぐ間もなくする」と言う。このことである。
解説
関羽の兵は、使者から家族が大切にされていると聞き、戦う気を失いました。関羽は兵を失い、孫権に捕らえられた。掩発の篇は、孫子の有名な言葉で締めくくられます。始めは処女のようにおとなしく見せて相手に戸を開かせ、後は逃げる兎のように素早く動いて相手に防ぐ暇を与えない。呂蒙の病気の偽装がその前半、商船での急襲と家族の保護による士気の切り崩しが後半でした。静と動の落差が勝負を決めたのです。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
掩発孫子処女脱兎呂蒙静と動奇襲
関連する章句
-
孫子・始計篇その備えなき所を攻め、その意に出でざる所に出づ。
-
名将言行録・『名将言行録』毛利元就 暴風雨の夜の渡海寄手に鳥銃六七挺あり、櫓楯支へず、土豚を積み之を拒けり。晴賢使者を元就に遣はして曰く、公先大貳の爲めに此入道を討るべきとの結構、尤も神妙の至なり。故に敢て逃避せず、聊か水陸の軍三萬を以て嚴島に陣せり、彼地に於て有無の一戰を遂んと。元就將士を聚めて、之を披露す。將士皆懼るゝ色あり。元就笑て曰く、彼の言ふ所をして信ならしめば、吾必ず大に克んと。衆其故を問ふ。元就曰く、彼地追狹、彼肩を側て、足を蹶し進退に便ならず、兵愈々衆くして鋒愈々鈍し、我死士數千を以て之を衝かば、克んこと必せりと。乃ち宍戶安藝守隆家をして吉田を留守せしめ、自ら精兵三千餘人を牽るて草津に至り、晴賢と海を隔て陣す。國內の諸豪其必敗せんことを怖れ、多くは病と稱して從はず。初め伊豫に能島、來島の二族あり、水戰に嫺へり。晴賢、元就並に之を招く。二族三百艘を以て來り元就に屬す。元就之を勞し、往て城中の消息を問はしむ。敵四方に地道を穿ち、樓櫓殆んど覆らんとするを、大衆を以て之を維持せり。元就移り大立山に陣す。晦日多く老弱輜重を草津に返し、纍々として絶えず。敵望み見て以て我兵を引揚ると思へり。是に於て元就諸士をして、相印には、二つ卷ト襷掛け三日の糧を佩ばしめ、相詞を約し、暮る比船に乘る。時に大風雨に會ふ。士卒震怖し、風の定まるを待んと請ふ。元就曰く、天我を助くるなりと。皆篝火を滅さしめ、一燈を本船に揚ぐ、諸軍之を認め、浪を破て渡れり。頃て裹浦に着せしが、雨頻りに降りければ、兒玉周防守傍より傘を指掛けたり。元就拳を以て傘の柄をしたゝかに打てば、傘は彼處に飛んでけり。旣に濟り舟を北岸に返して以て必死を示す。遂に博奕尾に上り、地名を問ふ、博奕尾と答へければ、元就喜び首途に博奕尾に上ること、早や打勝べき先表なりと言ひ直ぐに塔岡の背に出づ。小早川隆景別に伊豫の船兵を率ゐて、其面に出づ。敵風雨を恃み警邏する者なし。敵艦を穿ちて入る。
-
孫子・虚実篇その趨かざる所に出で、その意わざる所に趨く。
-
孫子・行軍篇兵怒りて相迎え、久しくして合わず、又相去らざるは、必ず謹んでこれを察すべし。
-
『春秋左氏伝』昭公十七年 彗星と火災の予言九月、丁卯、晉の荀吳師を帥ゐて、棘津より涉り、祭史をして先づ牲を雒に用ゐしむ。陸渾の人知らず。師之に從ふ。庚午、遂に陸渾を滅ぼす。之を數むるに其の楚に貳するを以てす。陸渾子楚に奔り、其の衆甘鹿に奔る。周大いに獲たり。宣子、文公荀吳を攜へて之に陸渾を授くるを夢む。故に穆子をして師を帥ゐしめ、俘を文宮に獻ず。冬、星大辰に孛する有り、西のかた漢に及ぶ。申須曰く、「彗は舊を除き新を布く所以なり。天事は恆に象あり。今火に除く。火出づれば必ず布かん。諸侯其れ火災有らんか」と。梓慎曰く、「往年吾之を見る。是れ其の徵なり。火出でて見ゆ。今茲火出でて章かなり。必ず火入りて伏せん。其の火に居ること久し。其れ然らざらんや。火出づるは、夏に於いては三月為り、商に於いては四月為り、周に於いては五月為り。夏數天を得たり。若し火作らば、其れ四國之に當たらん。宋・衛・陳・鄭に在らんか。宋は大辰の虛なり。陳は大皞の虛なり。鄭は祝融の虛なり。皆火房なり。星孛して天漢に及ぶ。漢は水祥なり。衛は顓頊の虛なり、故に帝丘為り。其の星は大水為り。水は火の牡なり。其れ丙子若しくは壬午を以て作らんか。水火の合する所以なり。若し火入りて伏せば、必ず壬午を以てし、其の見ゆるの月を過ぎず」と。鄭の裨竈子產に言ひて曰く、「宋・衛・陳・鄭、將に同日に火あらんとす。若し我瓘斝玉瓚を用ゐば、鄭必ず火あらず」と。子產與へず。
-
名将言行録・『名将言行録』織田信長 桶狭間へ駆け出す○永祿三年五月、義元大兵を率ゐ來り攻め、丸根、鷲津を攻落し、桶狹間に陣す。信長は鳴海に打て出防戰の志あり。老臣共大敵なれば、清洲を守り給へと諫むれども、聞き入れず、酒宴して猿樂に羅生門の曲舞を舞はせし時、敵旣に攻來ると告ぐ。信長少しも騷がず、人間五十年間外典の內を競ぶれば夢幻の如しと云ふ所を押返し歌ひて、忽ち螺を吹立さて物具して主從僅かに六騎、歩卒二百人計り驅出で熱田の宮に詣で、願文を神殿に納むる中に、軍兵追續き來れり。偖願文を籠め社頭より歸り、旗を進むる所に、白鷺二つ旗の先きに飛行くを、あれこそ當社大明神の擁護し給ふ驗しよと言て、諸勢を勇めて進みける。源太夫の祠より、東を見れば、鷲津、丸根攻落されたりと見えて、黑烟立上る。濱手は、潮滿たれば、笠原の東の道を、一文字に進みて砦々の味方に使を馳せ、其兵を引具し、中島の砦に至り、我謀は今川の大軍悉く本道へ繰出し旗本小勢ならん其所へ山陰より切て掛り、忽ち勝負を決すべきと大音聲にて下知せしかば、士卒皆競ひ勇みけり。旗を絞らせ山陰より桶狹間に打向ふ。義元は駿河の先陣打勝たりと喜び酒宴して居たりしに、折しも天俄に曇り夕立篠を突くが如く風雷烈しかりければ、義元の兵掛り來る物音も聞分たず、我兵鼓躁して切入りければ、敵不意の戰に周章たる計りにて出だす所を知らず、毛利新助秀高、義元の首を取りければ、敵勢總敗軍と成りぬ。信長追擊ち首二千五百を打取り、勝鬨を作りて、其日申の刻に清洲に凱陣せり。是より信長聲名益々彰はれたり。