長短経 / 掩発
吕蒙西屯陸口、關侯討樊、留兵備公安、南郡。蒙上疏曰、「關侯討樊而多留備兵、必恐蒙圖其後故也。蒙常有病、乞分衆還建鄴、以治病為名、某聞之、必徹備兵、盡赴襄陽。大軍浮江、晝夜馳上、襲其空虚、則南郡可取、而某可擒之。」遂稱病篤、權乃露檄召蒙侯果信之。稍徹兵赴樊、權聞之、遂行。先遣蒙在前、伏其精兵于□□中、使白衣揺櫓、作商賈服、晝夜兼行、至侯所置江邊屯候盡收縳之、是故羽不聞知〔太公曰、「偽稱使者、所以絶粮食、謬令、號與敵同服者、所以備走北也。」由此言之、衣服、號令之中、不可不審也。〕
新字:呂蒙西屯陸口、関侯討樊、留兵備公安、南郡。蒙上疏曰、「関侯討樊而多留備兵、必恐蒙図其後故也。蒙常有病、乞分衆還建鄴、以治病為名、某聞之、必徹備兵、尽赴襄陽。大軍浮江、昼夜馳上、襲其空虚、則南郡可取、而某可擒之。」遂称病篤、権乃露檄召蒙侯果信之。稍徹兵赴樊、権聞之、遂行。先遣蒙在前、伏其精兵于□□中、使白衣揺櫓、作商賈服、昼夜兼行、至侯所置江辺屯候尽収縳之、是故羽不聞知〔太公曰、「偽称使者、所以絶粮食、謬令、号与敵同服者、所以備走北也。」由此言之、衣服、号令之中、不可不審也。〕
書き下し
呂蒙、西のかた陸口に屯す。関侯樊を討ち、兵を留めて公安・南郡に備う。蒙上疏して曰く「関侯樊を討ちて多く備兵を留むるは、必ず蒙の其の後ろを図らんことを恐るるが故なり。蒙は常に病有り。乞う、衆を分かちて建鄴に還り、病を治むるを以て名と為さん。某之を聞かば、必ず備兵を徹し、尽く襄陽に赴かん。大軍江に浮かび、昼夜馳せ上りて、其の空虚を襲わば、則ち南郡取るべくして、某擒にすべし」と。遂に病篤しと称す。権乃ち露檄して蒙を召す。侯果たして之を信じ、稍く兵を徹して樊に赴く。権之を聞き、遂に行く。先ず蒙を遣わして前に在らしめ、其の精兵を□□の中に伏せ、白衣をして櫓を揺らし、商賈の服を作さしめ、昼夜兼行して、侯の置く所の江辺の屯候に至り、尽く収縛す。是の故に羽は聞知せず〔太公曰く「偽りて使者と称するは、糧食を絶つ所以なり。令・号を謬りて敵と服を同じくする者は、走北に備うる所以なり」と。此に由りて之を言えば、衣服・号令の中、審らかにせざるべからざるなり〕。
現代語訳
呂蒙は西の陸口に駐屯していた。関羽は樊城を討ちながら、兵を残して公安と南郡を守らせていた。呂蒙は上奏した。「関羽が樊を討ちながら多くの守備兵を残しているのは、私が背後を狙うのを恐れているからです。私はかねて病があります。どうか兵を分けて建鄴に帰り、療養を名目にさせてください。関羽がそれを聞けば、必ず守備兵を引き上げてすべて襄陽に向かわせます。大軍を長江に浮かべ、昼夜兼行でさかのぼって手薄なところを襲えば、南郡は取れ、関羽は捕らえられます」。そこで病が重いと称した。孫権は公然と文書を出して呂蒙を呼び戻した。関羽は果たしてこれを信じ、少しずつ兵を引き上げて樊に向かわせた。孫権はこれを聞いて出陣した。まず呂蒙を先に行かせ、精兵を船の中に伏せ、白い服の者に櫓を漕がせて商人の格好をさせ、昼夜兼行で関羽が長江のほとりに置いた見張り所に至り、すべて捕らえて縛った。だから関羽は何も知らなかった〔太公望は言う。「偽って使者と名乗るのは、敵の兵糧を断つためである。合図や号令を敵と同じにし、服を同じにするのは、逃げる敵に備えるためである」。これで言えば、服装や号令の中にも、よく見極めなければならないものがある〕。
解説

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