長短経 / 変通
虞詡薦武都郡、羌率衆遮詡于陳倉崤谷、詡令吏士各作兩竈、日増倍之、羌不敢逼。或問曰、“孫子減竈而君増之。兵法、‘日行三十里、以戒不虞。’今且行二百里、何也?”詡曰、“虜衆既多、吾徐行則易為所及、疾行則彼不測之。且虜見吾竈多、謂郡兵來至。孫子見弱、吾示强、勢不同也。”〔昔王濬在蜀、作船欲伐吳、預流柹江中以威之。及至唐將李靖欲伐荆州、襲蕭鋭乃投柹于江中、使蕭鋭見之、靖尋以兵隨柹而下、蕭鋭不備、遂虜之、平荆州。夫兵法變通、不可執一、諸君得之矣。〕
新字:虞詡薦武都郡、羌率衆遮詡于陳倉崤谷、詡令吏士各作両竈、日増倍之、羌不敢逼。或問曰、“孫子減竈而君増之。兵法、‘日行三十里、以戒不虞。’今且行二百里、何也?”詡曰、“虜衆既多、吾徐行則易為所及、疾行則彼不測之。且虜見吾竈多、謂郡兵来至。孫子見弱、吾示強、勢不同也。”〔昔王濬在蜀、作船欲伐呉、預流柹江中以威之。及至唐将李靖欲伐荆州、襲蕭鋭乃投柹于江中、使蕭鋭見之、靖尋以兵随柹而下、蕭鋭不備、遂虜之、平荆州。夫兵法変通、不可執一、諸君得之矣。〕
書き下し
虞詡、武都郡に薦めらる。羌、衆を率いて詡を陳倉の崤谷に遮る。詡、吏士をして各々両竈を作らしめ、日に之を増倍す。羌敢えて逼らず。或るひと問いて曰く「孫子は竈を減じ、而して君は之を増す。兵法に『日に行くこと三十里、以て不虞を戒む』と。今且に行くこと二百里ならんとす。何ぞや」と。詡曰く「虜の衆既に多し。吾徐ろに行けば則ち及ぼさるること易く、疾く行けば則ち彼之を測らず。且つ虜は吾が竈の多きを見て、郡兵来たり至ると謂う。孫子は弱きを見わし、吾は強きを示す。勢い同じからざるなり」と。〔昔、王濬蜀に在り、船を作りて呉を伐たんと欲し、預め柹を江中に流して以て之を威す。唐の将李靖、荊州を伐ちて、蕭銑を襲わんと欲するに至りては、乃ち柹を江中に投じて、蕭銑をして之を見しむ。靖尋いで兵を以て柹に随いて下る。蕭銑備えず、遂に之を虜にし、荊州を平らぐ。夫れ兵法の変通は、一を執るべからず。諸君之を得たり。〕
現代語訳
虞詡が武都郡の太守に推挙されて赴任するとき、羌族が兵を率いて陳倉の崤谷で虞詡の行く手を塞いだ。虞詡は役人や兵にそれぞれ竈を二つずつ作らせ、毎日その数を倍に増やした。羌族は迫ってこなかった。ある人が問うた。「孫臏は竈を減らしたのに、あなたは増やした。兵法には『一日に三十里進んで、思わぬ事態に備えよ』とあるのに、いま二百里も進んでいる。なぜですか」。虞詡は言った。「敵は多い。ゆっくり進めば追いつかれやすく、速く進めば相手は見当がつかない。しかも敵はこちらの竈が多いのを見て、郡の兵が援軍に来たと思う。孫臏は弱く見せ、私は強く見せた。形勢が違うのだ」。〔昔、晋の王濬が蜀で船を造って呉を伐とうとしたとき、前もって木くずを長江に流して呉を威圧した。唐の将李靖が荊州を攻めて蕭銑を襲おうとしたときは、木くずを長江に流して蕭銑に見せ、すぐに兵を率いて木くずの後を追って下った。蕭銑は備えておらず、捕らえられて荊州は平定された。兵法の変通は一つに固執してはならない。諸君はそれを会得している。〕
解説

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