長短経 / 蛇勢
袁尚既敗、遂奔遼東、衆有數千。初、遼東太守公孫康恃逺不服、曹公既破烏丸、或説公、“遂征之、尚兄弟可擒也。”公曰、“吾方使康斬送尚、熙首、不煩兵矣。”公引兵還。康果斬送尚、熙、傳其首。諸將或問曰、“公還而康斬尚、熙、何也?”公曰、“彼素畏尚、熙、其急之、則并力、緩之、則自相圖、其勢然也。”
新字:袁尚既敗、遂奔遼東、衆有数千。初、遼東太守公孫康恃遠不服、曹公既破烏丸、或説公、“遂征之、尚兄弟可擒也。”公曰、“吾方使康斬送尚、熙首、不煩兵矣。”公引兵還。康果斬送尚、熙、伝其首。諸将或問曰、“公還而康斬尚、熙、何也?”公曰、“彼素畏尚、熙、其急之、則并力、緩之、則自相図、其勢然也。”
書き下し
袁尚既に敗れ、遂に遼東に奔る。衆数千有り。初め、遼東太守公孫康、遠きを恃みて服せず。曹公既に烏丸を破る。或るひと公に説く「遂に之を征せば、尚兄弟擒にすべし」と。公曰く「吾方に康をして尚・熙の首を斬り送らしめん。兵を煩わさず」と。公兵を引きて還る。康果たして尚・熙を斬り送り、其の首を伝う。諸将或いは問いて曰く「公還りて康尚・熙を斬るは、何ぞや」と。公曰く「彼素より尚・熙を畏る。其れ之を急にすれば、則ち力を并せ、之を緩くすれば、則ち自ら相図る。其の勢い然るなり」と。
現代語訳
袁尚は敗れた後、遼東へ逃げ、数千の兵を連れていた。はじめ遼東太守公孫康は遠方にいることを頼んで服従していなかった。曹操が烏丸を破ると、ある者が「このまま遼東を征伐すれば袁尚兄弟を捕らえられます」と説いた。曹操は「私は公孫康に袁尚と袁熙の首を斬って送らせるつもりだ。兵を煩わせるまでもない」と言い、兵を率いて帰った。公孫康は果たして袁尚・袁熙を斬ってその首を送ってきた。将たちが「殿が引き返したのに、公孫康が袁尚・袁熙を斬ったのはなぜですか」と問うと、曹操は言った。「公孫康はもともと袁尚・袁熙を恐れていた。急に攻めれば力を合わせ、緩めれば互いに相手を図る。形勢がそうさせるのだ」。
解説

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