長短経 / 伐交
魏太祖初伐關中、賊毎一部到、太祖輒喜。賊破之後、諸將問其故。太祖曰、「關中道逺、若各依險阻、征之不一二年、不可定也。今皆來集、衆雖多、莫能相服、軍無適主、一舉可滅、為攻羌易、吾是以喜。」語曰、連鷄不俱棲、可離而解。曹公得之矣。此伐交者也。
新字:魏太祖初伐関中、賊毎一部到、太祖輒喜。賊破之後、諸将問其故。太祖曰、「関中道遠、若各依険阻、征之不一二年、不可定也。今皆来集、衆雖多、莫能相服、軍無適主、一舉可滅、為攻羌易、吾是以喜。」語曰、連鶏不倶棲、可離而解。曹公得之矣。此伐交者也。
書き下し
魏の太祖、初めて関中を伐つ。賊の一部到る毎に、太祖輒ち喜ぶ。賊破るるの後、諸将其の故を問う。太祖曰く「関中は道遠し。若し各々険阻に依らば、之を征するに一二年ならずんば、定むべからざるなり。今皆来たり集まる。衆多しと雖も、能く相服する莫く、軍に適主無し。一挙にして滅ぼすべし。羌を攻むるより易し。吾是を以て喜ぶ」と。語に曰く、連鶏は俱に棲まず、離して解くべし、と。曹公之を得たり。此れ交わりを伐つ者なり。
現代語訳
魏の太祖曹操が初めて関中を伐ったとき、賊の部隊が一つ到着するたびに、曹操は喜んだ。賊を破った後、諸将がそのわけを問うと、曹操は言った。「関中は道が遠い。もし賊がそれぞれ険しい地に拠っていたら、征伐するのに一、二年かかっても平定できなかっただろう。いま皆が一か所に集まってきた。人数は多くても、互いに従い合うことができず、軍に決まった主がいない。一挙に滅ぼせる。羌族を攻めるより簡単だ。だから喜んだのだ」。ことわざに「縄でつながれた鶏は一緒に止まり木に止まれない。引き離してほどける」とある。曹操はこれを会得していた。これが同盟を伐つということである。
解説
関中の諸勢力が連合して集まってくるたびに、曹操は喜びました。ばらばらに険しい地に立てこもられたら何年もかかるが、一か所に集まれば一度で片づく。しかも連合軍は、それぞれが対等で互いに従わず、全体を率いる主がいない。数が多くても一つの軍として動けない。縄でつながれた鶏は同じ止まり木に並べない。主導者のいない連合は、数の多さがかえって弱点になるのです。相手の結束の中身を見れば、恐れる必要のない大軍もあります。
この章句が説くこと
伐交曹操連合軍主導者不在結束の質関中
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